もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

こどもを「教育」の犠牲にすることへの戒め

 

高校入学式

 

島は、山桜の花が満開である

 

教師たちよ

この百十八名の新入生達の魂を

あなたたちの「教育」の犠牲にするな

「望まれる社会人」に育てあげるな

破滅に向かう文明社会の

歯車ともリーダーともするな

教師たちよ

再び島に帰らぬ「都会人」を育てるな

第三世界を侵蝕する「国際人」を作るな

教師たちよ

この百十八名の新入生達の胸の奥に

山桜の花より静かに震えている 魂の光があることを

必死に凝視(みつ)めよ

あなたの職業の全力を投じて

それを必死に凝視(みつ)めよ

 

島は今 山桜の花が満開である

 

もし私が校長だったら、職員朝礼でこの詩を読み上げたいと思います。

 

昨今求められる「(経済的)有用性」「役に立つこと」を「教える」ということはどういうことか。

 

教師が「教える」ものは社会に都合がいいという意味での「役に立つ」であることがほとんどです。「教わっ」たと本人が感じるものは本人のためになっているかもしれませんが、犠牲に反して得るものはほんのわずかです。

 

液体状の人間を既存の鋳型に流し込む、分類しテンプレートにあてはめ、レールに載せ競争させて効率よくさばいていく、画一化する「教育」

 

つきつめると、「文明社会の歯車」として喜んで消費されることを望む人間を量産してしまうことになります。

 

自分で考え、生き生きと伸びていくことができるはずの「魂の光」の芽を摘むことになり、結果として文明社会の破滅をはやめるだけです。

 

本当に行きたいと思う方へ自分の足で歩んでいく人間は、大きなものにとっては面倒で都合が悪い存在かもしれませんが、そういう人間を増やす方が、寛容であたたかい社会になっていくし、宇宙全体にとっても本当は有意義で幸せなことなのではないかと思うのです。

 

 

 

ドイツローマン派の詩人ノヴァーリス(一七七二年~一八〇一年)の『青い花』の扉には、次のような言葉が記されてある。

 

『すべて詩的なものは童話的でなければならぬ。

真の童話作者は未来の予言者である。

あらゆる童話は到るところにあってどこにもない、かの故郷の世界の夢である。』

 

この言葉は、詩の本質を見事に射抜いていると、私は感じる。現代詩、あるいは現代詩人と呼ばれているものの多くは、自己を習うのではなく自我を追求する近代思想のもとにあるので、ノヴァーリス童話と呼んだ詩の本質を遠く逸脱し、本来万人のものであるべき詩を、特殊な詩壇内の合言葉のようなものに狭めてしまった。

 

詩をもう一度、万人のものに取り戻したい。それが私の心からの願いである。万人の胸に開かれた自己としての神が宿っているように、万人の胸に詩が宿っているはずである。それを掘ることを、土を掘ることと同じく、自分の終生の仕事としたい。

 

「役に立つ」とはまさに「自我を追求する近代思想」だろう。

学校は「自己を習う」場所であったはずだ。

 

「アーティスト」など「職業」といわれるものも「自我を追求する近代思想」にあたるだろう。

「芸術」もお金を得るために、排他的になってしまい、門外漢や一般のひとには手を出せない領域になってしまうことのないようにしたい。

むしろ門外漢や一般のひとが何かしらのインスピレーションを得て、創作を始めるきっかけになってもらうことがうれしい。

つまり「一人間」として「アールブリュット」として「ずぶのしろうと」として「その人自身のプロ」としての「芸術」でありたいと願う。

 

「万人の胸に開かれた自己としての神が宿っているように、万人の胸に詩が宿っているはずである」

 

この「万人の胸に宿っている詩」が「高校入学式」の詩でいうところの

「山桜の花よりも静かに震えている魂の光」だと思う。

 

実は私も、それを掘りたいと思っているのです。