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ぽわわわ~ん教室回想 プロローグ ~学校で「ことば」を学ぶとは???~

とりあえず11年半の教員生活の節目ということで

自分がやってきたことをつらつら振り返ってみようかという気に

ようやくなってきました。

(しようしようと思ってしていなかった)

 

「教室」ということばがすでに

「教える側主体」に聞こえるのですが

お互いに「教わる部屋」として

そこで私が前に立つ立場をいただいて

学んだことを学んだ側として書いていきたいと思います。

 

昨年の夏に大量にノートやメモを処分してしまったので

残っているものだけになりますが

若い先生やご興味おありの方に向けて共有していけたらと思います。

 

今回はプロローグ…

 

ぽわわわ~ん

 

学校で「ことば」を学ぶとは???

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中学・高校での国語の授業ですが

「いったい何をすればいいかわからない!」

というのが初任の私の気持ちでした。

(もしみなさんが前に立ったら何をしますか? というのが、いつも聴いてみたいこと)

 

最初は自分が受けてきた国語の授業(ノート・テストなど)を見返して

思い出して、まねをしていたこともあります。

 

が、最終的には

読み・書き・聞き・話し

の四つの能力を高める?

というか深める…きっかけを作る

のが目標なのかなという結論に達しました。

 

しかし「ことば」というのは「こころ」とつながっているので

場や人間関係、アプローチのしかたによって

生徒が持っている能力を発揮できるか否かは変わってきます。

 

環境に左右されずに

能力を発揮できるひとはもともとできるひとなので

どんどん発揮してもらえばいいと思うのですが

ほとんどは能力はあるけど出せないという状況です。

 

それで「ない」と思い込み、苦手意識、嫌な記憶、トラウマだけが残って

「しない」ままに「しない」大人になってしまうことはよくありそうです。

(私も体育や美術や家庭科など…苦手意識を持ったまま大人になりました)

 

私はどんなひとにも程度の差はあれ、能力や意志はあると信じます。

それをどうやって引き出すかが「エデュケーション」というやつではないでしょうか。

(引き出すのは本人に気づかせて自信を持ってもらうためで、すでに自信があるひとにはあまり必要ない)

 

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そもそも、教室という場は

人数も多く、信頼関係が希薄なことが多いです。

 

ましてや「教師」と「生徒」という関係性は

はなから対等なものではなく

(それが自然でよくはたらくこともあるかもしれませんが)

一方が一方を評価するという、びくびくする構造になっています。

 

と、いうわけで生徒が思っていることを

縦横無尽に発言したり

表現したり、ということはおおむね禁止されています。

 

そんな中でいきなり「自由に話し、書いていい」と言われても

できないのは当然です。

(それであの形式的な作文、読書感想文が生まれる…)

 

一般的な国語の授業は

以上のような教室の構造上の理由から

個人が表現する「書き」「話し」が封印され

ひとつの答え(教師の答え)のある「読み」「聞き」という受動的な力を試しては

伸ばす方に偏っていると思われます(忖度の力を養います)が

多くの学校が「テスト」「成績」「受験」を中心課題に据えているために

どうやってもそこから抜けることは難しいのが一教室の現状です。

 

それでも前に立つひとは

自分の目的や信念を見失わないことが大事だと思います。

 

積極的に外へ向かって「書き」「話す」力(参加する力、主体性)を伸ばすことが

「読み」「聞き」の力を伸ばすことにつながっています。

 

といっても何もないところで

「書き」「話す」だけでは

普段通りすぎるし

双方向のコミュニケーションにはならないので

 

ことばの属する文化(日本語なので日本…英語なら英米?)に

共通の何かを「読み」「聞く」ことを

通過点(社会との接点、周囲との共通点)として

「書き」「話す」ことを目標にする。

 

これが「自分のことば」の力を深めるうえで

いちばん大事なのではないかと思っています。

 

そして私は出せないひとにほど

勇気を持って出してもらいたいと願います。

そのために教室や学校があり、私がいると思うほどです。

 

私も出せないひとだ(った)し

出せるひとになりたいと願って

ずぶの学校をはじめたのです。

 

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「エデュケーション」

「表現させること」はものすごくリスキーなことです。

 

受けるひとによっては「いらんこと」と感じるひとも多いことでしょう。

個人の本音は「非(反)社会的」なものかもしれませんし

「教師」も体裁が悪くなったり、とまどったりすることが増えるかもしれません。

 

しかし表現することを封じ込められたまま

一生幸せに過ごすことができるでしょうか?

 

「攻めが最大の守り」と言われるように

表現することで、小さく傷つくリスクはありますが

結果もっと大きな「内なる自分」を守ることになるのです。

 

局所的でも、誰かにどこかで

表現しないと「内なる自分」を殺しつづけることになります。

そうなるといずれどこかで爆発します。

 

自分で考えること、自分を表現すること

を教室でしなくていいというなら

教室では「ことば」はどうやって話すのでしょうか?

その「国語」の時間はその生徒にとって

その先生にとって意味があるんでしょうか?

学校は何のためにあるんでしょうか?

 

何のために朝早くからわざわざ集合してるんでしょうか?

絶望…

死にたくなる…

のももっともだ…

 (インターネットが普及している今日び学校に特に意味はないのかもしれない、それを考えるのも人ぞれぞれですが)

 

と、いうのが私の考えなのであって

いろんな考えのひとが集まっているのが学校かとは思いますが。

 

下を向き、参加しない姿勢が常習化一般化すると

投票率も下がるだろうと思います。

 

勇気をもって表現するひとりひとりを応援することが

私のしたいことのようです。

それは自分を励ますためでもあるのです。

 

なので、この文章が表現したいと思っているひと

同じように考えて学校にいるひと、いないひとへの

何かしらの力添えになればと願い、書いていこうと思います。

 

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