もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

うじゃーなる(vol.12)に寄せて

ずぶの学校をはじめたのは2015年、学校での国語の授業に限界を感じたこと、自分の「余談」の幅が狭いことへの反省がきっかけだった。十代、二十代とことばに親しみ、学んできて、それまでは読んだ本の内容をうきうきと話していたのだが、どうしてもことばばかりが先行すること、そのような「他人のことば」を受け売りしていることがだんだん恥ずかしくなってきた。拙くとも、実際に見聞きし、感じた「自分のことば」を話したかった。行動の伴わないことばに傷ついた経験もあり、「言」と「動」の一致(少なくとも不一致の自覚)、「ことばの身体性」というものが自分の課題だと認識するようになった。そのために、いろんな場所に行き、ひとと話し、また自分の生活をしていく中で、地に足をつけてひとつひとつ丁寧に考えながら生きることが必要なんじゃないか…と進んでいくと、自然と「生きて立つ姿勢」を根本から見直すことになっていった。


2017年、私も関わっていた宝塚にあるteracoが開催するイベントに即興楽団UDje()をお招きすることになった。イベントの前に福祉施設「糸をかし」でのワークショップの様子を見学させてもらったのだが、私がいちばん感動したのは、主宰のナカガワエリさんが圧倒的なパワーを持っているように見えながらも「ひとりで立っていない」ことだった。エリさんはワークショップ前に職員さんのみのワークショップをし、ワークショップ後には、職員さんと「ふりかえり」をしていて、ひとりひとりの今日の様子、こうありたいという方向性を分かちあっていた。職員さん、利用者さん、うじゃのメンバーを信頼し、任せ、生かし、立たせることで、立っていた。


さながらバンド…ああ、これが即興楽団か、その時その場で結成され、解散するその時限りの寄り集まりのバンド。「素質あるぜ」というエリさんの熱心な叱咤激励は、日々利用者さんと向き合う職員さんたちを力づけ、バンドマン(バンド=組織・社会、の一員)としての自覚を確かに持たせるものだった。

 

「授業」って「ライブ」なんだ!と目覚めてしまった…しかも教室にいる全員がメンバーであり、観客である「バンド」。ことばが好きな私の場合は、今この場で降りてくる即興の「おはなし」があると嬉しい。先生も生徒も関係なく「余談合戦」の様相でまんべんなく調和するのがいい気がする。「テンプレ」をなぞる練習ではなく「オリジナル」のことばをつむぎ交わしあうことが、私とあなたが今ここにいる意味じゃないか。
しかし、現実の教室は寄せ集められた集団。みんな他人事のような顔をして座っている、この時空間に参加する気は毛頭ない、というか身体がない、ところにことばがあるはずもなかった…そうか、それは前に立つ者が「ひとりで立っている(つもりでいる)」からかもしれない、と気づいた。教室(あるいは学校)の中にメンバー、同志を見出し関係性を築こうとしないから、教師は孤立し、生徒を「管理」する必要があると思い込み、いつしか「管理」が目的になっていく。先生と生徒の間に信頼関係のない学校は、何をしても無意味であるばかりでなく有害でさえある。

 

「教育」という虐待が、毎秒こどもを殺していた。

 

それは自分がしてきたことだ。教室では常に自分が何かをしなければならない(ひとりでステージに立っている)という強迫観念にせきたてられてきた。環境と自分が追い込んだ。外部に助けを求めないこと、表現しないこと、孤独がそうさせるのだと思う。自分がいくら余談の腕を磨こうとも、生徒が身を切って余談を発表し参加してくれなければ講演会と同じ。私は結局ひとりで立つことになる。生徒にとっては嫌々見せられている番組の中では比較的癒しや退屈しのぎになるというだけのことであって、その個人を社会の一員として認め励まし自立させる方法には全然ならないのだった。もっと生徒を信頼して任せたらいいのだが自信がなかった。そりゃそうだ。練習も楽屋もなく、ステージの上でだけ会うようなうすっぺらな関係性で何かを作れるはずがない。ひとりでできることは限られている。

 

社会の中に生きて立つために、バンドメンバーを増やし続けるために、私は自分の身体(アイデンティティ)のある地点から、まず行動ありきのことばを発しつづけたい。そのための姿勢の正し方を今エリさんに教わっているところです(からだを整えるレッスン受講中)。

 

 

かましみさき(ずぶの学校)

 

レッスンの様子はこちら↓↓

zubunogakkou.hatenablog.com