あさってにせまった種まき祭。
そんなときに、そんなときだからこそ。
うじゃを本格的に習いはじめました。
すてきな先生を見つけたら通いたいのは昔から。先生好き。職員室好き。
昨年にテラコの部活動で開催したお祭り「Face to fes.(顔と顔)」で知った即興楽団UDje()(うじゃ)
主宰するナカガワエリさんが行っている福祉施設での
レベルの高いワークショップ(授業)を見学させてもらって感激。
一見障害のない生徒が集まる学校でも本当のコミュニケーションをとることや
本当の信頼関係を築くことが難しいのは
全く同じだと感じました。
そういう点において、一見通常の学校は授業の質がとてつもなく低いということも痛感。つまり生徒と先生の隔たりは大きく、信頼関係はほとんどない。この時期にこどもはおとなに失望するのだと思います。(そしておとなになろうとしない)
信頼関係が築けないから「ハラスメント」なるものが蔓延する。
「ひきこもり」や「うつ」もその延長線上にありそう。
学校では信頼関係を築けたらいい
(勉強は二の次)
そのために私ももっとからだや声の表現を見直して
上から目線の、傍観者的態度を矯正していきたいと思ったのでした。
昨年まではグループレッスンで何度か通っていました。
3~5人くらいのごく少人数で丁寧なレッスン。
とてもいいなぁ、私もそういう授業がしたいなぁと思って、まず学校で夏休みに自由な授業を募集していたときに手を挙げて、少人数の文学の授業にトライしました。
文学の授業がしたいと思ったのはその前年に、ある学校で「文学」の授業を担当し、樋口一葉や国木田独歩などを読んだことがきっかけです。
それまでちゃんと読んだことなかった漱石以前の文学にも興味を持ち始めました。
自分が読んでもっと考えるために、授業したい。
(授業をしないとちゃんと読まない、なまけものだから)
これも昔からずっとそうです。
自分だけではよくわからない(読みが深まらない)部分を他のひとのお話を聞いて学びたいと思っています。
それが高じて今度は
より経験ある大人に話を聞きたいと思うようになりはじめたのがずぶの学校の「文学momimomi」という月一回の読書会です。
(2ヶ月お休みしていましたが、6月からまた復活予定)
3月からエリ先生の個人レッスンを受けることにしました。
本日2回目のレッスンでしたが、毎度驚異の効果を実感します。
(CMか)
行くときは足を引きずって行くのに
帰りの体の軽さたるや…とびはねるようなんです。
なぜ?!
まずカウンセリングがあります。
ここがいいの!
ほら、話をじっくりふかーく聴いてくれるんですね。
(出た、やかまし娘)
やっぱり、自分の話を先生に聴いてほしいんだね、生徒は。
私の悩みは主に学校(つまり社会)について…
今回は自分がしたいこととしていることが反対であるがゆえの葛藤。
学校(勉強)を好きになってもらいたいし、ことばのおもしろさを知ってほしいのだよ。
だけどやってることは、学校を嫌いにすること、ことばに拒絶感を与えること。
辞めたい(いつも)
あと時代とのギャップ。
今の識字力(文字を理解する力、文字を読んで考え判断する力、他人の心をおもいやる力)の低下。
現代はビジュアル、映像の時代だから、情報が文字しかなかった時代と比べると文字を一生懸命読もうとするモチベーションがすごく下がってる。
だから、文字に興味がない。
文字=古代の遺物
今日授業で「電光石火」という四字熟語を見て
ああポケモンのわざの名前で最初覚えたなぁと気付いたのですが、
私の小中学生時代のゲーム(初期の「ドラクエ」とか「ポケモン」とかRPG)って「文字」だったのです。
画面はクオリティが低いから、ほとんど文字で説明があるだけ。
ぱっぱっと流れる文字を一生懸命読んだ。
だんだん映像のクオリティが上がってきて文字を読まなくなったな。
(大学のときにFF10をやったときは映画を観てるのか?って感じだった。それはもちろん楽しいのだが)
SNSの時代だけど、ツイッターもラインも使うひとの識字力&表現力の質が下がってるからますます過激になって、ヘイトスピーチなどにもつながっていると思う。
…てなことは考え出すときりがなく、どんどん体が上に上がっていくのであった! 威嚇するふくろうのように!
そこからストレッチはじまる。
ストレッチといってもエリさんオリジナルの「整える」という作業。
本来のかたちにからだをぐぐっと持っていく練習。
自分ではなかなかできぬ…よくわからぬ…
エリさんにぐっとしてもらってなんとなく「すっく」とする気がする
「そうそう」「きれいだよ」と言われてほっとする。
本日よく言われたキーワード…
「わりばし」
「尾骨」
「鳥かご」
「汽笛」
メロスの朗読をする。
私は、授業でからだを動かしたり、声を出したりすることをきちっと(=縦横無尽に、いつも止まってる)する、自分のからだを生かすことが目標なので、「声」を出すための練習をいくつかの段階をふんでやっていく。
声も姿勢も背中を意識することが大切。
(というのを聞いて、司馬遼太郎の「竜馬が行く」で竜馬がひとりで、背後からいつ襲われてもいいように精神統一して歩いていたっていう話を思い出した。武士。強さの秘訣か)
体も声も前に意識が行っていて前のめりになりがち。
なので体を後ろにすっとひいて、後ろから声を出す、するとオーラが…
めーーーー
ろーーーーーーーーー
すーーーーーーー
という琵琶法師的な朗読スピードで「汽笛」のように声を出す。
一生懸命文字を追う癖で
文字を見るとつい追いかけて意味を考えてしまうのも
からだや声に意識がいかない原因だった。
「両方できるようになる」
と励ましてくれる先生のことばを信じて、とりあえず汽笛になりきる。
最後まで談話する。(なかなか帰らない客)
最近はずぶ邸で暮らす時間が増えて、からだが下に来たような、地に足がついてきたような感覚を感じる。
ちゃんと暑いし、虫もいる。小さいけど地面がある。
家の構造が自分でもなんとかわかる範囲。
おばあちゃんやともだちやご近所さんとの交流もあって、これが社会に生きるってことか?と思い始めている。
自分の(人間の)手に負えないタワーマンションがどんどん建設されていることが、何十年か先のことを考えると本当に恐ろしい。
「環境は本当に大事だね~」とエリさんも深くうなずく。
(エリさんは目下ねこのニャンコ先生のことを心配している)
「快適な建物の中にいると、雨が降ってるのかどうかも分からないんだよ…」
建物の中、組織の中というのは「人間」の感覚を奪っていくのだった。
高いところで育つこどもはのびのびできないという話をしていて、あ、私もマンションにしか住んだことないやんと思った。(違う面でのびのびしてたけど)ひよわなわけじゃ。
そして母には、静かに歩き、静かに話し、厳しくじっとすることをしつけられてきた(名言「動きなさんな」←不思議な日本語)
私、大声を出したことがない、出し方が分からない
→大声を出すことが恥ずかしい&怖い(コンプレックス)
できることなら筆談がいい(笑)
ということに気が付いた
まだまだ恥ずかしがってることに気が付いた(こんなにふてぶてしいくせに!?)
私の障害だ。文字の世界が発達したゆえんでもある。
運動(遊び)は好きだったけど体育は苦手だった……
(競争になるととたんに嫌な気持ちになる)
すなわちフィジカルに関してはコンプレックスだらけなのだった。
だからちゃんと教えてもらうことによって自信をつけたい。
それは他の活動にもつながっていくはずだ。
好きな先生に個人レッスンを受けることが一番効果が上がる。
学校は授業の数も生徒の数も多すぎる。そら、ぺらぺらになる。
「結局一対一で地道にやり続けるしかないんだよね」とエリさん。
ちっぽけな人間は自然のごく一部なのだ。
エリさんのように大地でふんばり続けたい。