お盆でして、ご先祖をお迎えするにあたり
ずぶの布類を洗ってみました。
(ずっと洗いたかった…)
庭に水をためてばしゃばしゃ。
足でばしゃばしゃ。
これが原初的なプールなのか!
そしてきっとお風呂にもなるんだろう!と
思いながらの
洗濯。
(ついでに植物に水をあげる→かける)
友達やお客さんやご近所さんとお話したり
お茶しながらの
洗濯。
家電がうまれたことで便利になったけど
失ったものを思い出しました。
ひとりで家でしなければならない仕事として
経済性や時短、効率を重視した
仕事や家事や子育てや教育…
そもそもひとりでは抱えきれないものであり
経済性や効率を重視することで
心が空洞化するという逆説。
(空いた穴を消費で埋めようとするが埋まらない)
ぼんやりと納得できないことが積もり積もって
ストレス、孤独、自己否定…
仕事や家事や子育てや教育は
本来「ながら」で「ついで」だったのではないかと
思いいたる。
井戸端で話をしながらの仕事。
仕事がメインか話がメインか
精神の洗濯も
かねていたのですね。
ひとりの時間、ひとりの仕事、
個人的な思いや関係が土台としてまずは大切。
自分でやりたい気持ちは
自分でやってみることでしか満たされないし
いつまでも納得できないし自信を持てない。
(やられてみる、奪われてみることでしか芽生えない自我もあるね、あるって気づけて外に出せたら流せるものだなー)
すべてを「シェア」はできないし
する必要もないだろうけど
「ひとりでしなければならない!」と
おもすぎてしんどくなった場合
怨念になって過去をひきずってしまいそうな場合は
かろやかにシェアも選べるようになったらいいな。
8月末から12月まで母校で登壇することになりました。
学校はもういいかなと思っていたけど
「学校一般(a school)」ではなくて
自分がいた場所としての「学校(my school)」が
どんな場所で、どうして自分は学校で働きたいと思うようになったのか
確かめたいという気持ちも芽生えてきました。
里帰り。
こちらも今度は「ながら仕事」としてやってみたいという
挑戦でもあります。
職員室での井戸端がメインかもしれないし
教室でも井戸端ができたらいーな。
学校や社会への疑問やなんかも経験をまじえて話せたらいーな。
ははは
井戸端人形劇かな。