もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

何のために勉強するのか?✍

「何のために勉強するん?」

 

こどもによく聞かれる問いですよね😹

 

 

さて、何のためだろう…

 

 

わたし自身のことをふりかえってみれば

(それしか答えられません…)

 

小中高校生まではなんの疑問も抱かず

「勉強」も「学校」も「先生」も好きでした。

(苦手な科目の勉強は苦痛で嫌いな先生は嫌いでしたが)

 

動くのはそんなに好きじゃないし

部屋でひとりじっと机に向かって文字を追いかけたり

書いたり

だれにも邪魔されない時間が

心地よかったからです。

自閉症気味です)

 

 

でも、大学生になると答えのある勉強が

急に重要でなくなりました。

 

「あなたはどう考えますか」と問われるようになり

考えることが好きなわたしは

考えたことをレポートや論文にする(できる、してもいい)

ということが、自分にとってはとても楽しいものでした。

 

特に論文、というかたちは

地道で、大変な作業だけれども

外に発表すれば

広い範囲で、長い期間にわたって

閲覧できるために

考えたことを社会に伝え

次世代の研究の一助となる

ということは

歴史・社会の中で役に立つ方法として

有意義なものだと思います。

 

調べたことを題材に

物語や小説のかたちにして

広く読んでもらえたとしたら

それもまた有意義なことかもしれません。

 

教員になってから

生徒たちと対面で関わるという環境にいたために

机に向かって平面的なものをこしらえるよりも

 

「今のこの現実をどうにかしたい」

「目の前にいるこのひとたちに何を伝えられるだろうか?」

 

ということに人事に心が向くようになっていき

文字の勉強に対する興味や根気が

どんどんなくなっていくような気がしていました。

(おとなになるってそういう感じ?)

 

文章の読解(?)などを説明(?)していく中で

 

本当に「読む」ということは

テストをつくった人の意図を読むのではなく

自分が「書く」ということであり

もっと言えば

「創る」ということだ!

と思うようになりました。

 

立体感、実写化

 

を求めるようになっていったのでした。

 

書いてあることに

「なるほど!もっともだ」と思うことがあれば

さっそく生活にとりいれて

(ちょっとずつでも)そういうふうにしていく。

 

具現化。まねび。ごっこあそび。

 

そうこう積み重ねていくうちに

自分にしっくり合った人生が創られていく…

 

わたしにとって

もともとは好きだったけど

今となっては嫌いになってしまった

とまでは言わないが

まっすぐに好きとは言えなくなってしまった

「勉強」「学校」「先生」への興味が

どこからわいてくるのかをさぐるために

江戸時代の思想(儒教)の歴史についての本を

読んでみました。

 

 

 

 

 

 

何故じぶんが今こうなのか

これからどうしていきたいか

(どこから来てどこへゆくのか)

を知りたい!

(一生進路について考えていたい)

 

というのが

じぶんが本を読む(勉強する)もくてき、

原動力だと気がついたのです。

 

 

江戸時代まで日本では

文字を勉強するための教科書が

まず儒教の経典なので

「文字」=「儒教」=「勉強(学問)」

なのでした。

 

近代以降の「学校」が受け継いだ

儒教」「儒学

 

このことばに対しても

「学校」に対するのと同じ

もやもやとした愛憎のような

なんだろう、

気恥ずかしさ、罪悪感、嫌悪感のような

もやもや…がうずまき、

わだかまってしまうのですが

 

その理想である

「徳の高い立派な人間になる」

「能力を政治に生かし社会をよくする」

というのを

 

わたしの場合は

「立派な」→「おもしろい」「かわいい」

「政治」→「生活・人生」

などと変換すると

だいぶ共感するところであります。

 

一応身分制度もなくなり

より民主的な時代になった(?)現代では

「ひとりひとりの生活・人生を豊かにして

社会全体をよくする」

といえば

今でも理解・共感できうるものだと思います。

 

豊かということは

資本主義的な価値観が大勢の今日であっても

(であるからこそ)

物質的なこと(それもある程度大事ですが)よりも

精神的な豊かさを目指していく姿勢が

徳の高さなのかと思えます。

 

霊主体従。

 

勉強は「勉めて強いて」やること

そういう意味ならば

「冒険的なあそび」であり

未知の新しいことにチャレンジして、

生活・人生をちょっとずつおもしろい方、

よりかわいいと思う方に転がしていくための

試行錯誤の道行き。物語。

 

生まれ持った環境や能力に

多少の差はあれど

考えたりやってみたりの連続で

それぞれのひとにそれぞれの道がある。

 

大学以降、人によっては小中高校以降どこでも

レールをおりた時点ではじまる

「答えのない勉強」にも

何らかの「答え」があるんじゃないか…?

と半信半疑で求めつづけてきて

 

それは普遍的な

「真理」とか「道」とかいうのか

ことばは違えど

「本質」「自分」を追求していく過程。

 

目に見えるかたちやことばが

「分ける」ということをしているだけで

細部(自分)は一人一人ちがうといえばちがうんだけども

おおまかには(本質は)みな同じもの。

 

このたび儒教の本を読んでいて

これまで趣味やあそびで研究していた

占いやスピリチュアルとのつながりを感じ

結局、じぶんにとって「勉強」とは「あそび」であり

じぶんを究めるための精神的な修養のことだ!

と再び理解しました。

 

自分が豊かで幸せになるために。

 

そうなれば周囲や社会もよくなるはず!

という希望をこめての

自分が豊かで幸せになるために。

 

自分が豊かだと感じること、

心地よく幸せだと感じることはなんだろう?

と日々問いかけ、探し求めるところから。

 

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萬事、気嫌よく(by 桂枝雀