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モリヤンヌちゃんに紹介してもらった本を読みました。

 

深海菊絵さんの

『ポリアモリー 複数の愛を生きる』

 

いきさつはこちら↓↓ 

山崎ナオコーラさんの本からのかんそうのようです…ナオコーラさんは高校一年生の生徒に教えてもらって冬休みに読みました。

 

ポリアモリーとは??

 

わたしたちの生きるモノガミー(一夫一婦の結婚※ずぶ注)社会では、一人の人間を愛し、貞操を貫くことこそが「誠実」な愛の証。いくら真に愛していようと、その相手が一人でない限り、自分の愛の「誠実さ」を伝える術がないのである。

だが、しかし……。

「複数の人を本気で愛している」という自分の気持ちに、嘘をつく必要はないのではないか?と考える人びとがいる。彼らは「<一対一>の愛だけが正しいわけではない」「愛は社会規範が保証するわけではない」「愛する人数は自分の意志で決めるべきだ」と主張し、新しい選択肢を加えた。

それは、同時に複数のパートナーと「誠実」に愛の関係を築くという道である。複数愛の可能性を探求する彼らは、自分たちの愛のかたちを「ポリアモリーpolyamory」と名付けた。

複数愛といっても、ポリアモリーには条件がある。それは自分と親密な関係にある全ての人に交際状況をオープンにし、合意の上で関係を持つこと。したがって、パートナーに隠れて複数の人と関係を持つようなことはポリアモリーではない。また、ポリアモリーは性的な関係を持つことを第一目的とするスワッピングの人間関係とも異なる。ポリアモリー実践者の目指す関係は、感情的にも身体的にも深く関わり合う持続的な関係である。

 

 深海さんがアメリカにフィールドワークに行き、ポリアモリー実践者へのインタビューを試みてまとめたのが本書。実際に出向き、インタビュー、対話を通して学ぶという民俗学的方法は私がやってきているやり方ドラクエでいうところのコマンド「はなす」。まずはなす)とも似ている気がして(勝手に)、上から目線じゃない謙虚な書きぶりに親しみを持ちました。(ご本人はまだ実践者ではないそう。)

 

逆にもっと自信を持ってもいいのでは?!と思うほどでしたが、デリケートな問題でもあり、また現代社会においてはマイノリティなので、きっと風当たりもきついのだろうと想像しました。

 

以下、ポリアモリーの考え方に個人的に共感した点をまとめてみます。

 

◎小説から着想を得て実践する

ポリアモリストが「ポリアモリー(的な関係)」を知ったきっかけの中で割と多いのが「文献」で、特に「SF小説」が多いらしい(P66~)

 

実はポリアモリーSF小説には深い関係がある。ポリアモリストの間でとりわけ有名なSF作家は、ロバート・ハインラインだ。彼の小説の特徴は、既存の社会規範に疑問を呈し、オルタナティブな性愛関係や家族を描く点にある。ハインライン自身もオープン・マリッジを実践していたようである。

ハインライン異星の客(Stranger in a Strange Land )』(邦訳一九六九)は、宗教やポリアモリー的な関係を扱った作品である。ストーリーを簡潔に述べると、火星人に育てられた地球人の男が、地球に帰って友人や恋人をつくりながら自分とは異なる地球人の思想を理解し、火星人の思想が反映された独自の宗教を開いていく、というあらすじである。この小説は「ヒッピーの聖典(バイブル)」と呼ばれ、当時の社会に多大な影響を与えた。驚いたことに、『異星の客』の熱狂的信者たちによって宗教団体まで創設されている。その宗教団体というのが、先に述べたペイガン(ペイガンは「異教徒」を意味し、キリスト教以前の多神教の信仰や自然崇拝を特徴とする、らしい※ずぶ注)の「全世界教会(Church of All Worlds)」なのである。

「ポリアモリー」という語をはじめて使用した人物に関しては諸説あるが、有力な説のひとつに全世界教会の創始者であるモーニング夫妻という説がある。(略)

このようにポリアモリーSF小説は切り離せない。しかし、現在はSF小説や対抗文化(カウンター・カルチャー)と全く関係のないところから、ポリアモリーに関心を持つ人びとが増えてきている。

 

実際、深海さんも高校生のときに読んだ江國香織の『きらきらひかる』が「ポリアモリー的な関係」に興味を持つきっかけになったそうだ。

 

映画や小説やドラマの設定を現実にしていく、というのはものすごく共感するポイントで、映画や小説やドラマは一種の理想郷として描かれていたりすることもあるだろうが、理想はイメージすれば着々と叶っていく(というか、ちからわざで叶えていく!という意志を持てばよい)と私は思う。別にあきらめなくてもよい、と思う。

 

私自身、3年ほど前に「ずぶの学校」を一種のフィクションとして建てた(?)わけだが、現在はあとから現実がついてきている節があると感じている。

 

私が参考にしている設定も多々あるのだろうが、一番は黒澤明氏のまあだだよという映画。漱石「坊ちゃん」「木曜会」(こちらは実話)渡辺崋山の絵(下)などもイメージの参考になっているかもしれない(おいおいリスト化したい)。

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渡辺崋山「一掃百態」


 なぜ家族は解散したら、友人は結婚したら、生徒は卒業したら、同僚は職場を辞めたら、関係が途絶えるのか。切りたい場合はそれでいいのですけど、ゆるくでも日常的につながっていることはできないものか…なぜ結婚していないと相手の抱えている問題に踏み込んでいけないのか、なぜ友人が結婚していたら、私は問題の当事者でいられなくなるのか。なぜ血がつながっていたら相手の問題にずかずか踏み込んでいける、踏み込まなければならないとさえ思っているのか、なぜ家庭や学校の中では法が犯されても放置されるのか…本当に「家族」で支え合って生きているか? 心を通わせているといえるだろうか? 本当に「家族」だけで支え合わなければならないか、家族とはどこからどこまでを指すのか…

 

人生に深く関わり合う持続的な関係はその意志、意識さえ持てば、一人一人がもっとできることはいっぱいあるんじゃないか?と思うわけです。

 

◎「老後」では遅い(老後とは?)

私は「老後」という言葉を聞くといつも違和感を感じる。自分にいわゆる「老後」があるとは思えないからだ。というかどこからが「老後」なのかわからないからだ。私はこの、生きることを前提にしたことばをもどかしく感じる。当たり前のように「老後」が来ると信じて生きていくことが私にはできない。人間は必ず死ぬし、老少不定の世の中なのであるから、死ぬ直前を「老後」とするなら、今日がすでに老後なのではないかと思う。老後がはじまっている、老後へのイメージに向けて具体的に動き出しておくのは今なのではないかと思う。老後、急に型にはまったような「幸せ」になることはできない。それを幸せと思えるとは思えない。今から幸せ(理想)について考え、熟議し、幸せへ向かっている、幸せの途中、幸せのさ中にいたい。その中で死んでいきたいと思う。

 

フィールド・エッセイ6 <他者>とともに生きる(P212~)

 

「理想的な場所は、ナガーノ? 家を購入する際に支払える金額、不明。月々の支払い1000ドル以下。人数10名くらい。理想はパートナーや仲の良い友人たちとみんなで協力し楽しく老後を過ごすこと」

ケイトは紙に書かれたものを読み上げた。

「これ書いたの、あなたね?」

ケイトは訝しげな顔でわたしに尋ねた。

「はい」

今日のミーティングのテーマは「グループ・リビング」。グループ・リビングとは、複数の人が集まって暮らす居住スタイルのことだ。ミーティングがはじまると紙が配られ、そこに自分がグループリビングを実践するなら、①理想的な場所はどこか ②家を共同購入する際に支払える金額 ③月々に支払える金額 ④どんな人と暮らしたいか ⑤人数 ⑥その他の理想、を記入せよ、ということだった。記入された紙はケイトのもとに集められ、彼女が一つ一つ読み上げていた。

(略)

「そもそも君はなぜ、グループ・リビングを老後に限定しているんだ?」

質問といより、批判の声だ。

「わたしは大学もありますし、パートナーは仕事もありますし」

そう答えると今度は30代の女性が「いいかしら」と切り出した。

わたしたちは夢について語っているけど、それは同時に現実可能なプロジェクトについて話し合っているってことなの。わたしは仕事もあるし、子育てもしているわ。あなた、現状でグループ・リビングするとしたら…」

彼女の発言で、このミーティングの主旨をはじめて理解した。

 

自分の理想の家族、友人関係、状況、つまり社会を作るのは一朝一夕でできることではない。すべてが思い通り、計画的にいくはずもなく、どんな状況にも対応できるように今からこつこつ努力や試行錯誤が必要なはずだ。これは職場でその場限りの人間関係を円満にするために四苦八苦するよりもっと切実に大事なことではないかと思う(実際に困ったときに職場のひとが助けてくれるような関係性ならいいのだけれども)。仕事に没頭して時間を消費しているばかりでは自分の幸せが何かを考え感じることのできないひとになると危惧する。多くのひとが考えることを先送りしている問題について、今考え、布石を打っておいたほうが未来につながる可能性はまだあるのではないか。そういうひとが増えれば、もう少しゆったりした社会になりそうだし、人々はもっと楽に(本当の意味で)なるのではないかと思う。

 

◎オルタナティブな家族創造 

 

フィールド・エッセイ6 つづき(P214~)

 

「理想的な場所は、ウエストハリウッド地域。購入の際に支払える金額は検討中。理想的な月々の支払いは1200ドル以下。人数は10名以下。理想は異なるジェネレーションから構成されるグループ・リビング」

ケイトは読み上げると、意味不明の言葉を明瞭に発した。

月は無慈悲な夜の女王(Moon is a Harsh Mistress)!」

後で知ったことだが、「月は無慈悲な夜の女王」というのは、ロバート・ハインラインSF小説のタイトルである。この小説には「ライン・マリッジ」と呼ばれる異なるジェネレーションの人びとからなる複数婚が描かれている。

 これを書いたのは、60代後半のウィリアムだった。彼はわたしがインタビューしたなかで最年長の男性で、現在一人暮らしをしている。彼はヴェトナム戦争経験者であり、戦場で多くの友人を亡くした。生をいかに豊かに生きてゆくことができるのか。この問いを強く意識するようになったのは、ほかでもなく戦争の体験である、とウィリアムはいう。帰還後、彼は関心のあることに次々と挑戦した。そのなかの一つが、既存の結婚のスタイルに囚われない生き方であり、当時の妻とともに「ファミリー・シナジーのメンバーになった。

「ファミリー・シナジーはコミューンではない。オルタナティブな家族を築いている人びとのサポート教育グループだ。ファミリー・シナジーの理念は、自分とは異なる<他者>を認めよう。それだけだ。」

シナジーという言葉は、「相乗効果(協働)」である。ウィリアムは<他者>との協働について、二つに分けてわたしに説明した。

「一つは、自分とは異なる家族を築いている<他者>との協働だ。モノガミーのファミリー、ゲイ・レズビアンファミリー、シングルマザー・ペアレント・ファミリー、ステップファミリー、ポリファミリー。アメリカにはさまざまな家族のかたちがある。みんな大切な人と暮らしているだけだ。もし隣の家が自分と異なるファミリーであっても、受け入れ、助け合うことができたら日常は豊かになろう

 もう一つは、家族内の<他者>を受け入れることから生じる。血や法の絆があるかどうか、一緒に住んでいるかどうか、あるいはセクシュアリティの違い、ジェネレーションの違い、それらに関係なく互いを認め、ともに生きていければ、素晴らしい相乗効果が期待できよう。自分とは異なる<他者>を受け入れることは、自分の人生を豊かにする道具(ツール)になりうると信じている」

 

私は、ひとつひとつの家族は「~ファミリー」という便宜的な枠にあてはめることはできない固有のものなので、「もし隣の家が自分と異なるファミリーであっても」ではなく、「隣の家は自分とは異なるファミリーであるが」だと思う。

 

「ポリアモリー」について、私が共感した部分は以上のようなことだった。

 

わたしは「愛」と「アモリー」が同じものなのかどうか、「日本」と「アメリカ」の価値観の相違、「家」制度の歴史の相違があるように思うので、そのあたりのギャップによる(?)違和感はぬぐえない。なので、「おわりに 日本のポリアモリスト」以降の事例には若干上滑りのような感触があった(「ポリアモリー」は性的関係を第一目的とする「スワッピング」とは違う点は共感)

 

なんにせよ、「対話」の文化・土壌がない日本(日本語)(そして「家」の中は最もそれに乏しい傾向にある)で、「オープン」「合意」「責任」「誠実」「自由」「協力」「コミュニケ―ション」「信頼」「尊敬」「感情」「持続的」を肯定的にとらえる「ポリアモリーを急に実践しようにもレベルが高すぎるようにも思う。

 

わたし自身、欧米的な「アモリー」をあまり持ってないように感じる。「こころ」「まごころ」「誠実」「思いやり」「やさしさ」「丁寧」「大切」「尊重」「人間と人間のつながり(仁義※)」というようなことばが、わたしにとっての「アモリー」の訳語かもしれない。

 

※仁義=古代中国、孟子の中心思想。仁は博愛の徳、義は悪を恥じ事の理非を区別する徳であり、いずれも人間に生得的と説く(性善説)、の方。

仁義(ジンギ)とは - コトバンク

 

モリーの表現には、ことばとからだ(行動)の両方が必要だと思う。というかむしろ「からだ」が先行している方が説得力がある。

 

「ことばとからだ」に関してはコチラ↓↓

zubunogakkou.hatenablog.com