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旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

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信頼されてひとりではなくなる

現在NHKで放送している実写版の赤毛のアン「アンという名の少女」第一話、ニ話を見ました。

 母が好きだったので語り伝えられて育ち、小学生のときは、学校から帰ってきたら母がビデオでアニメを見たりしていて、とびとびに見聞きし要所要所おさえています。

 

グリーンゲイブルスに住むマシューとマリラの兄妹が年をとってきたこともあり農場の仕事の手伝いをさせるために、男の子を養子にとろうと思ったのですが、手違いでなぜか女の子のアンが待ち合わせ場所の駅で待っていました。

 

アンの魅力、表現力の豊かさに最初から心を動かされていた人間嫌いで無口なマシュー。一度は孤児院に送り返そうとした頑固なマリラも次第にアンの血筋や過去を知るなかで、誠実さ、高潔さ、知性、人間性を信頼しはじめ、しばし様子を見ることに。

 

「女の子でがっかり」される経験は今は少なくなったかもしれませんが、私の母世代(60代)はまだまだあったようですね(男の兄弟より自分が必要とされていないという感覚など)。

 

男の子の方が必要とされるのは、=愛されているというわけではなく、社会的に有用性がある(=役に立つ)からなので、それはそれでよくもわるくもあるような気がするのですが。

(あるいは男の子でも「長男」以外は「がっかり」の対象で、大人になってからもひきずっている傷つきの原因だったりしますよね。あるいは他の兄弟姉妹に比べて自分の方が…という感覚は多くのひとにあるかもしれませんね)

 

きっぱりと女性差別に立ち向かうアンはマリラに言います。

 

「女の子が男の子よりもできないなんてことはない。あなたもそう思うでしょ?」

 

そんなとき隣人のリンド夫人が家に来て、アンをひと目見て「おや、見た目で選ばれて来たわけじゃないみたいだね。やせすぎだし、器量もよくない。まさに骨と皮ね。そばかすだらけの顔、にんじんみたいな赤毛。」

とうっかり言うと(リンド夫人はおしゃべりで噂好き、原作もリンド夫人の噂話からはじまる。娯楽も少なかったのかな?と想像します)

 

アンは死んだ顔(殺された顔…?)になり

 

「ゆるさない、面と向かってそんなこと言うなんて、失礼で血も涙もないひとです。もし逆の立場だったらどう思います? 私がリンドさんのことを太ってて不器量で想像力のかけらもなさそうだって言ったらどうです?! 今の言葉でリンドさんがどう思ってもかまわない。傷ついたらいいと思ってる。リンドさんのことばで私はかつてないほど傷つけられたんだから! 許さない、一生ずっと!絶対に絶対に…」

 

と言い返し、下着のまま家を飛び出してしまう。

 

リンド夫人がばつが悪そうな様子で「ああ驚いた、孤児院に戻しなさい。あんな子を育てるなんて無理よ」と言うと、マリラは動揺しながらも「外見をけなさないでほしかった」「かばうつもりはない、無作法だった。あとでちゃんと言い聞かせておく。でも少し多めに見なければ。作法をおそわってないんだから。あなたもきつく言い過ぎた」と冷静に答える。

 

このあとリンド夫人がアンをムチで打つようにいうセリフからは、当時のこどもの人権のなさが垣間見える。今も建前上はともかく、実際はそれほどこどもの人権が認められているわけではないでしょうが、今以上にあからさまな児童虐待は当たり前だったことがうかがえる。使用人や奴隷といった感覚なのかもしれない(使用人がいたことがないのでわからない感覚ですが…)。

 

アンの親友になるダイアナのように裕福な家庭はそうでもないのかもしれませんが、身寄りのないこどもや、こどもの多い家族のこどもは力もなく、立場もなく、生きるための労働が当たり前であったようです。

 

そして外見からの人種差別。日本ではあまりわからない感覚ですが、赤毛やそばかすは、『アニー』や『にんじん』でも有名なように見下される対象であったらしい。邦題が『赤毛のアン』っていうのはこれから何かが起こりそうな、物語としてそそられるタイトルのような気がしますし、実際物語の中でも「赤毛」の変化がアンの成長を象徴していくわけなのですが、他の国の方からしたら差別的な表現ということになってしまうのでしょうか。日本で育った私としては、赤毛もそばかすも「かわいい」というイメージなので、むしろ赤毛やそばかすに憧れる勢いですよね。

 

マリラはアンをムチで打ったり地下牢に閉じ込めたりなどということはしませんが、リンド夫人に謝る気になるまで2階から下りてこないようにいいます。

 

夜になってマシューがこっそりアンの部屋にやってきて「こうなったら謝ったらどうかな?」とやさしく提案するが、アンは「でもあやまったら嘘になる」「でも悪いと思ってないのに悪かったと言うなんてできません」「どうして私が謝らなくちゃいけないの? リンドさんがあんなこと言ったせいでこうなったのに…」とかたくなにうずくまっている。

するとマシューがこういいます。

 

「私は想像するんだ、きっといつか誰に何を言われようがお前は気にしなくなるだろうと」

 

言われたアンは固く閉ざしていた心をやわらかくひらき

 

「想像力が豊かね…そう思ったら謝れる気がしてきた。マリラさんには悪かったと思うから。あなたにも。」「そしたらはやいこと面倒を片付けておいで」「わかった。二人のためにやってみる。」

 

 

マシューのたったひとことで救われる。わくわくする未来への想像、願望、期待。

 

過去のネガティブな事象にこだわっていた(自信がなく気にしているから)ところから、未来のポジティブな想像を志向することができるようになったのだ。イメージし、そちらに向けば、そのようになっていく、創造していくものなのだ。

 

アンは力や立場は弱くても、生きる力がある。それは想像力や表現力、行動力、彼女の内側からあふれてくる意志であり希望なのだ。それは誰かに待たれること、期待され信頼されることではじめて持つことができる。一人だったアンが「「家族」ができた(一人ではない)」と感じることができてはじめて。このシーンはそういう瞬間だったように思います。

 

確かに謝るか謝らないか、それがいいことなのかわるいことなのかということはわからない。けれど、自分が何を選ぶのか、選びたいのかということが自分でわかり、決めることだけが唯一の答えなのだということはわかります。

 

結局、アンはマリラと二人でリンドさんに謝りに行きます。

 

椅子に座っているリンドさんに走り寄り、ひざまずいて手を握り

 

「リンドさん本当に本当にごめんなさい。どんなに悔やんでいるかどんなことばでも言い表せません。大変な失礼をして、男の子じゃないのに住まわせてくださっているマリラさんたちの顔に泥を塗りました。こんな恩知らずの悪い子は罰を受けるべきで世間に受け入れてもらえなくても仕方ありません。あのときカッとなったのはリンドさんが本当のことをおっしゃったからです。何もかもすべて本当のことだったからです。赤毛でそばかすだらけでやせて器量が悪いって。あたしが言ったことも本当だけど言うべきじゃありませんでした。リンドさんどうかお許しください。」

 

「まあまあもう立ってちょうだい。もちろん許すわ。私もきつく言い過ぎた。私はずけずけ言うたちだから気にしちゃだめよ。」

「寛大な言葉をありがとうございます。何か言われても気にしなくなるのが楽しみです。」

 

 

さて、こんなおおげさなパフォーマンスがいいことかわるいことかを判断するのは周りのひとではないし、だれもとやかく言うことはできないですよね。そんなことはどっちでもいいのでしょう。私はいたずら心満々で、楽しそうに話すアンが大好きです。

 

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※原作であった帰り道にアンとマリラが手をつなぎ、マリラのおなかのなかにあたたかいものがこみあげてくる名シーンはなかったけれど、この先にまたあるのかもしれませんね。アンとともに、こども(子育て、教育)に無縁だったマリラとマシューの人間的な成熟?というのか変化も、この物語の見どころのひとつだと思います。

 

 

※このシーンを見ると思い出さずにはいられない事件が二年前にありました。このことからも現在の「こどもの人権のなさ」を感じますし、私は後悔してはいないものの、自分がどうすればよかったのかいまだに考え続けています。

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