8月の末から里帰りしていた母校での勤務(?)が終わりました!
「漢文」の授業を担当するのは実ははじめてのこと。
(古典の中でやってきたけどメインではありませんでした)
《もくひょう》
〇諸子百家(特に老荘思想)の話をし学校教育(儒教的価値観)を客観的に見る→無為自然を体現する
〇訳読み上げ機にならない→自分のことばで考えてもらう→その場で共有する
〇テストのために授業しない→形式的な仕事の削減
〇人形劇をする(やりたいだけ)
〇言葉以外の創作(アウトプット)を取り入れる(舞台演出の試行錯誤)
短期ということもあり
今までよりも明確にシンプルにもくひょうを目指した時空間の実現を意識しました。
お互いリスクをおかしてわざわざ集まっているのだから
今まで通りの授業ではもったいないなーというのが根底にあり
(前から思っていたことではありますが)
わざわざ会って、集まってよかった、学校に来てよかった
と思えるようなことをしたいと思っていました。
学校教育的価値観では「怒る」とか「注意する」ということが必要な場面でも
市民活動の観点からいえばどっちでもいいことが多いので
治安(体裁)は悪くなりますがそれこそが無為自然なのかなと思います。
(そもそもお行儀のいい、のんびりした学校なので悪くなると言っても全然しれてるレベルだったと思います)
自分(教師)の体裁のために「怒る」、力で「おさえつける」
学校的価値観の奴隷になるのをやめました。
「参加型」「双方向」というのは言うはやすしで
口で言うだけで乗り気になってくれるようなものでもなく
なってくれたら嬉しいけど
なってくれなくても当たり前というか
なってくれなくても別にいい(たいした問題ではない)し
おとなが機嫌を損ねない(笑)で
どうすれば乗り気になってくれるかを考え直す
というのが心構えとして大事だなと思います。
「待たずして待つ」というやつですね。
前に出ること、表現することには常にリスクがありますが
(チャンスでもありますが)
そんな中で
積極的に参加してくれたひとは本当に尊敬
(前に出なくてもいろんな参加のしかたでたのしんでくれたひとにも感謝)しますし
そういうひとたちを私は今後も守護霊となって祝福しつづけたいと思います(笑)
学生時代から私は表現するひと、主人公(主体)となるひとを
リスペクトし応援する
(自分もしたいしたいと思いつつできないから)
というスタンスで生きてきまして
自分もやっと表現できるようになってきたのかな
というような今です。
はっきり再確認したことは
自分のもくひょうが分断ではなく調和であるということ。
競争させ仲たがいさせ、不安や反目、ぎすぎすを生むのではなく
和やかに楽しくひとりひとりが存在できる時空間づくりをもくひょうに
すべての言動をしていきたいと心指しています。
「なかよくしなさい」と上からことばでいうのではなく
ひとつひとつの取り組みの中で(何をしてても)
交流や和が生まれること
あたたかく納得、満足感、安心感のある場を作ること。
体裁ではなく本音で話すこと。
(体裁には副音声でひとりごとをつけて話すことができるよ)
本当にいじめやハラスメント、戦争をなくすためには
どこにいても、そのもくひょうを見失わないことが大切なんだ
といよいよ肝に銘じた4か月でした。