―私が七歳まで生まれ育ったここ、淡路でこんなことになろうとは―
やかましいまえがき
長年住んでいたおじいさんが亡くなり、この家が空き家になったと祖母から聞いたのは、2016年の春でした。祖母は私が生まれたころにはすでに隣でクリーニングの受付をしていましたが、ここが貸家だったことはこのときまで知りませんでした。当時私は、15年の春に中崎町に開いたずぶの学校を、予想通りの経営難からいったん閉鎖(自宅に移転)しようと考えはじめた矢先のことでした。
母と内覧に来てすぐに気に入りましたが、壁も床もぼろぼろで、雨漏りもしていて「あばらや」といった様子で、祖母も母もお手上げ状態。両者「かわいいけどお金はかけたくない」とのことでした。私も中崎町で部屋を借りていたので、すぐにどうこうというふんぎりもつかず、放置していました。夏に、順調に中崎町の方を閉鎖して自宅に移転し、今後も活動を続けていくためにお金の使い方、働き方、暮らし方をしばらく落ち着いて考えようと思いました。
ちょうどそのころから宝塚にあるteraco(テラコ)で部活動がはじまったので、場所を失った私は渡りに舟と、「毎週木曜日はテラコに行く」と決めました。すると、部長のさくらさんが毎週付き合ってくれて、「今日はどこどこに行こう」「今日は誰誰が来る」「今日はこれこれ作ろうか」「こんなおもしろいひとがいるねんて」など、毎回とてもライトな感じで今後の展開を示唆してくれました。
末川さんも一緒に三人でどこかへ行くことも増え、笑いの絶えない会話の中で、仕事のし方や生き方などを教えてもらっています。
愛あふれる、かっこいい先輩たち。
私は行くだけで、いろんなひとに会えて、話ができて、知らないことを教えてもらったり、たまには教えてお金をいただいたりもできるようになってきました。
そんな日々を一年半ほど続けているうちに、インタビューをして本人に言語化してもらいながら「進路相談」にのることや、「文学」について語りつつ、そのひとの考えや経験を聴くことが、私ができること(したいこと)だということが、だんだん明確になってきたのでした。
その間も、この家の改修や補修についての相談を建築士さんにしてみたりはしていたのですが、周りのひとになんと言われても、私はやはり「ゆるい学校」、私が勤めているような学校とは違う、自分なりの「学校」のような場所を作りたい、ということは変わらないし、まちの風景として年代物の風情ある家がつぶされて駐車場やマンションになるのは嫌でたまらないので、それを守るには誰かが身を削らねばならない(責任をとらなければならない)、でなければ文句は言えないとも思っていました。
高校からの友人であった中西さんにはずぶの学校を開校してから、ことあるごとに出演してもらっていましたが、そのうちに空堀で行われるイベント「物語する芸術祭」に参加してみようということになり、「ずぶとじぶ」というユニットを結成し、まちの中でおどりを探すという新種のRPG冒険型の公演を行って、好評を博した……というか自分たちがとにかく楽しかったので、多少なりともこういう働き方、
「好きなひとと自由で創造的な仕事をしてお金をいただく」
という意志は是非持ち続けたいと思うようになりました。
中崎町のずぶの学校では、大学時代の文学部ともだちのこにしさんが、絵の展示会をするというかたちで場所作りに協力してくれました。そのときに、本の制作に詳しい小梅さんと出会い、創作ユニット「ウチュークジラ」の二人と念願の同人誌を和綴じで作るという夢が叶いました。それが悠長派文学の金字塔「和亀(わかめ)」です。和亀の製作は一冊一時間ほどを要し、何もイベントがないときはほぼ和亀に関わって暮らしている(紙を選びに行っているか、原稿を書いているか、印刷しているか、折っているか、綴じているか)という状態で、今や年中行事に組み込まれています。
あちこち一緒に行商や自主的な出張、研修に行ったりするようになって、こにしさんが
「大学の演習室※のような場所がほしい」
※(本に囲まれた中に机があってみんなで、またおのおの勉強したり話したり、先生が授業をしたりする場所)
と言っているのを聞いて、「ああ、それにちょうどいい場所があるんだった。けど、使えるのかなぁ、うーむ」と、それでもまだ自信がなくて手をこまねいていました。
17年の6月、一通の手紙が舞い込みました。それは「ずぶぬれ」を見て届いたはじめてのおたよりでした! 「ずぶぬれ」とは16年の12月から発行している、ずぶの学校のフリーペーパーです。場所をなくした私は、紙面にそういう場所を作りたいと奮闘し、いろんなひとに余談をせがみ話してもらう(書いてもらう)というかたちで紙の上で学校を作ろうと思ったのでした。
ずぶの学校に興味を持っていただけたらしく、是非お会いしたいということで、わりとすぐに自宅に来てくれて、お話したのが寺嶋さんです。
寺嶋さんも、私と同じように何名かの作品を集めてフリーペーパー「遊撃手を探して」を作っていてすぐに意気投合、これもわりとすぐに「一緒に何かを作りましょう」「何をしましょうかね~」という具体的な話になっていきました。
紙系の創作はもう二人ともやっているのでいいかなぁ…ということになり、何か、音楽なのかは分からないがライブ的なセッションがしたい(実は二人とも元吹奏楽部でした)と結論が出て、「あ、場所は実はあるんですが…」とここでまた思い出して切り出しました。寺嶋さんはDIY的な作業にも慣れていらっしゃるそうで、あっさり
「やってみましょう! 実験室的な場所って、いいですね」
と乗り気になってくれました。
ここで、中西さんとこにしさんを誘って四人がはじめてこの家に集結したのが、昨年の6月末のことでした。
毎週できるだけ集まって、掃除や補修をしつつ、イベントを開催していこう。いや、イベントを開催するために掃除や補修をしていこう。「今したいこと」を優先的に「今あるもの」を利用して「ずぶのしろうと」ながら、とりあえずやってみようじゃないか。
「Learning by doing」
教育家デューイのおことば通り、とにかくやってみて考えよう、実践あるのみという方針で。
【一年のあゆみ】
・創作会(7月~)
・物々交換会(8月)
・日曜学校(11月)
・縄文茶会(12月)
・校長誕生日会(1月)
・読書会(2月~)
・句会(3月~)
そうこうしているうちに、祖母が出資して屋根を中心に外回りの補修をしてくれ、ご近所さんから古い家具や食器、着物、はぎれをいただいたりして、みんなで持ち寄った布をつなぎ合わせてマットを作ると、なんだか温かい家らしい雰囲気になってまいりました。
布には思い出が詰まっていて、見るとそのときのことが思い出されます。マットを作りながら、その布で誰がなにを作ったとかいう昔話を聴いて、それを生かそうとするのはとても素敵な時間でした。私は自分が毎日学校で働いているとき、服や布を買うばかりで全然使いこなせない、ものを大切にできないことにストレスを感じていました。今は考え方も生活も変わったので、なんでも(ではないけど)自由に切り裂くし、つなぎ合わせることができるようになりました。
今回は、種まき祭に向けて本格的に内装に着手していこうということで、テラコの床を貼った、遊び心とホスピタリティ満載の飯坂さん(MICROCOSMOS)に癖の強いお願い
「押し入れに人形劇のスタジオがほしい」
「(キッチンがある)土間をギャラリーにしたい」
等々たくさんして、無理難題を柔軟に聞き入れていただきました。
この家は、あちこちがパッチワークでできています。誰かが作ったものや、使っていたもの、使われなかったあまりものがつなぎ合わさってできています。お祭りの三日間はさらに、このときかぎりの、ライブでしか生みだせない作品もまじえて、さらにクレイジーなゆがんだ時空になればと思っています。
そしてこれからは、また新たなメンバーが来てくれて、ますますおもしろいことができたらいいなぁと念じながら、種をまきたいと思います。ご一緒に。