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ずぶの学校新聞 no.29

~ぼんやり考える人間(じんかん)~

 

 テラコで行われていた講座の最終回で、ゲスト出演でお話させてもらうことになりました。今考える自分の「人生の目的」について。難問でした。(今もなお…)ぼんやり話しながらぼんやり考える、貴重な時間になりました。

 

ひとりひとりが、自分が考えてきたこと、理想や幸福についてを、真剣に自分のことばで語る姿、そしてそれをみんなで見守る時間、空間がすばらしく、学校の教室も、職員室も、家庭も、まちのどこでもこうであればいいのに……と思いました。いやむしろどうしてこうでないのだろう、と不思議に思います。参加していた方が「職場ではこういう話ができないから」とおっしゃっていましたが、それは聞き覚えのあることばでした。

 

二年前、ずぶの学校を始めた時に参加した哲学カフェで、若いお医者さんが

 

「患者さんの死を受け止めることがどういうことかわからない、身近に『死』の経験がない、職場でも話せないのでここで話し合いたい」

 

と自らの悩みを打ち明けました。最も「死」が身近なはずの病院が、医療従事者がそのような切実な課題を語り合う(心の)ひまもないのでしょうか。何よりも大事なことのように思うのですが、そういうこと、個人の悩み(ことば)がなおざりにされがちなのは学校でも同じです。(それどころじゃない…とはいうものの、そこが自分なりに解消されないと、どんどんおかしく苦しい方向へ行ってしまう…)

 

今年の夏休みは学校で、少人数(五人程度)で文学作品を読むという授業をしました。ひとりひとりが思ったことを話すことができる、わからないことをわからないと言える空間って(する側としても)なんて気持ちがいいんだろう、と思いました。ただそれだけのことが、普段からどれだけ殺されて生きている(息だけしている)かを、ひしひしと感じさせました。何でも話しやすい空気が本当の人間関係を作るのだとしたら、教室では(職場では)難しいのかもしれません。

 

自分らしく生き生きと生きるという理想に向けて、私は、おのおのが、おのおののことばを持って発することができるような空間と時間と人間(じんかん! 社会という意味です)を作りたい。そのために率先して常に「I(アイ)」で話すという野望がある。それは社会ではすぐににぎりつぶされがちなことばであり、苦しいことが増えるのは必至なのだが、それでも持ち続けたい理想である。自分が「I」で話すことができてはじめて、相手の「I」も尊重することができるはずだから。音も声もそのひとのオリジナルであるように、ことばも「自分」からしか発することができないのです。まずは私の話をするので、いつかあなたのお話を聴かせてください。

 

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奥・人生の目的を話すわがはい(@TERACO)撮影・さくらまみ

あかまつみさき

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