もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

種まき祭 一日目・二日目

金曜日から種まき祭がはじまったのですが、私は授業があったので少し遅れて参りました。


昨日の授業もものすごくつまらなくて、やっているあいだもずっと嫌でした。が、エリさんのレッスンを受けた直後でもあり、諦めてはいけない!とも思っていました。


漢字と問題演習の授業という、そもそもつまらない内容なのでして、しかもクラスはあんまりものを考えるのが好きではないひとたち。


今回は、評論ではなく有川浩の「県庁おもてなし課」という小説の一節で(有川浩は一冊も読んだことがないので全然知りません)高知県の観光推進の仕事をしている主人公が、県にひとを呼ぶための設備がないことを嘆いていたところから、二人のりのパラグライダーで空を飛ばせてもらうと、高知県の自然、海、川、山、空の価値を再確認して期待にふるえるという場面。

まさにずぶ邸のことじゃないか!

ずっとないものねだりをしていた私が、「あるもの探し」「あるもの生かし」を志すようになってずぶ邸再生活動をするようになった流れと同じ。

と思ってびっくりしましたが、その話をどこからどういうふうにするんだべ?



……無理だ。



アンダーグラウンドすぎて生徒を混乱させまくるような気がして、そこは諦めたのですが何かないかなと思って頭の中をくまなく探した結果、

高知県に行ったことある?」

ということばがでてきた。

私は行ったことあるねん~ともだち(中西さんです)とコンテンポラリーダンスの公演を見に行ったんだった。よさこい号というバスに乗ってね、四国は意外と山が険しいし、高知は四方を山と海に囲まれていてかなり隔離された地域みたい。

あ、それも司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を読んでさ、知ったことでもあるんやけど。全8巻あるけど実は最後の巻を読めてないねん。なんでかっていうと、龍馬が死ぬとこを読みたくなかったからさ。悲しいやん。だから私の中で龍馬はまだ死んでないねん。うふふ。


などという話をつらつらしていると、教室はほとんど寝てたけど、いつもは無表情でいたり寝ていたりする女の子数名が顔を上げて笑顔で話を聴いてくれていた。

ことが本日の救いです。

諦めないで、何か考えて行動してみて良かった。
(良かったレベルが低くて嫌になりますが)


今日は二日目。人形劇とダンスの日でした。

やっぱりお人形が動くのって夢があって浮かれてて嬉しいことだなと思います!

ことばと人形(布)と動きと音楽

どれも好きなものだから、人形劇はライフワークにしたい。

念願のスタジオズブリ。せっかくかっこいい舞台を作っていただいたので生かしたい。


前座で本家のやかまし村朗読。泣きそうになった。


今回はこけら落としで、表面的には「THE 人形劇」といった感じだったけど、これからいろんな人形劇、もう少し実験的なものもやってみたい。

実際は、翻訳文学の時空をこえた、ちぐはぐな文体を味わっていただきたかったのですが、どうでしたでしょうか。

演劇風朗読じゃなくて、もっと自分を生々しく生かせるようなコンテンポラリーな素のままな人形劇をやってみたいな(俳句もそうだけど)

ダンスでは、中西さんの動きに合わせてカーテンを引いたり、音を鳴らしたりするのが楽しかった。能みたい。

うじゃのエリさんや中西さんに学んで模索します。

終わってほっとしながら、こにしさん作の「つむじ」という民芸品作りをさせてもらいました。
こにしさんが作った粘土のかたちに合わせて細かく色を塗っていく。元のかたちを生かしたいなぁと試行錯誤。

塗るのを失敗しても、こにしさんは

「失敗なんかない」

と励ましてくれます。やかまし村のこどもぐらいの女の子も来てくれて一生懸命色を塗って帰ってくれたのは嬉しかった。また時空を超えた。

勉強になる。
私はこうやって何気なく学びながら時間をしのいでいきたい。

楽しいから、というのももちろんあるが
時間のしのぎ方(遊び方)として(たぶん全員が)一番幸せだと思う方法が「創作」なんだと思う。

「家族だけ」でも「職場だけ」でも「その両方」があっても重たすぎて暗すぎて嫌なんです。

もっと他に方法あるやろ、と思うんです。考えろ!
それが今の活動です。

誰かと面と向かい合うのも、ひとりでいつづけるのもできなくて、こういう場所、時間がないと自分がしんどくなる。

時間をしのぐのに何かを消費するだけじゃなくて、関係を築きながら何かを生み出すこと。いや、何かを生み出すことで関係を築くこと。

そのための創作であり、勉強だ。
だからできばえは実はそれほど問題ではない。
心を打つかどうかは差し迫っているかどうかだと思う。

全く元気だけど、耳が遠くなったおばあちゃんと、家族だけで向かい合うのはつらいと思っていた。うちはみんなが集まるような親戚づきあいが全くないからだ。そして私には家族の緩衝材になるであろう「こども」もいないからだ。最近はとても楽になった。私ひとりじゃなくて、みなさんに見守られながら存在の重さをまんべんなくしてもらうと私が楽なんです。

法事みたいなものはきっとどんな団体にも必要で、家族でできなければ外部のひとともできるんだなぁと身に沁みている。それも閉鎖的ではなくオープンに、より気持ちよく積極的にできるのだった。


意識的に依存先を増やさないとどんどん閉鎖的になってしまうのが現代社会のシステムだと思う。それに飲み込まれないように、仕事でも遊びでもないけどその中間の時間空間で、好きな人を巻き込みながらどうにか自分を保ちたいと思っている。

空き家っていうのは、そういうことをするために空いている気がする。必死になって必要なもので埋めてしまわなくてもいいような気がする。

老いや障害を家族だけでは背負いきれない。
今回、人形劇の舞台の布を縫うのにおばあちゃんが大活躍してくれた。こういう関係性が一番楽で楽しくて嫌いにならなくてすんで幸せだ。おばあちゃんはどうか知らない、でもこれまでは年一回行くか行かないかだったところ週二回も行くようになったんだから、よろこんで…(いるかは知らない)


まわりに喜んでつきあってくださる皆さまがいることが幸せに思います。カンパも本当にありがとうございました。
ここは私にとっての学校でありアトリエであり病院であり寺です。

明日は寺嶋さんの放送部を聴いてから庭に種をまきます。