北山修の『人形遊び』という本を読んで
ファンとして誰かを追いかけるのは「人形遊び」のひとつ(偶像崇拝)なのかもしれない、という視点を得ました。挙がっていた例はTVやラジオ、雑誌の中のビートルズですが、その距離の遠さから彼らの大きさはお人形サイズ(それは機械で大量に複製できるお人形)だということが書いてありました。
ビートルズまでいかなくても、誰かをプロデュースしたり、振り付けたり、脚本を書いて動かしたり…というのは「人形遊び」だなーと思いますし、自分が演じる側にまわれば「ごっこ遊び」だなーと思います。
自分の思い通りになるのが「遊び」であり「自由」ということなのかもしれませんね。
子育てや教育、介護などは主人公がいて不自由に振り回される(遊ばれている?!)中で学んでいくというものかもしれません。
多少の振り回され経験がひとをより成熟させるのではないかとも思えます。
リアルの関係性というのは変わるし、常にかけひきですね。
(いにしあちぶの奪い合い)
着せたい服を着せたり、行かせたい学校に行かせたり
着たくないと言ったり、行きたくないと言ったり
テストして順番に並べたり、一斉にあいさつさせたり
紙を破いたり、ゴミ箱を蹴ったり
折り紙やお遊戯をさせたり、ベットに固定したり
忘れたり、うろうろしたり
上からの管理による下からの抵抗…
わかりやすい抵抗なのに、関係性が固定しているとますます管理を強めて逆効果になることもしょっちゅう。
主体はいつも下のはずなんですが上にいるひとが自分の欲求を満たすためにやっちゃってることがしばしばですね。体裁的にやっちゃわざるを得ないってこともあるね。
葛藤。
おとなも上にいるためには、害のないところで自分の欲求を認識して満たさないと、いらんところでそういう無駄な(しかも害のある)行動に出てしまうことがあるな。
遊ぼう…
思い返せば、その二大遊びがわが兄妹のこどものときの遊びでした。
「とことこ」(大阪弁で)は人形をとことこ動かして遊ぶ「人形遊び」です。
(「いこか~しよ~」「とことこしよ~」と誘います。)
SNSの普及によって誰でも手軽に表現できるので、個々が「セルフプロデュース」をして生きていくような時代になりました。「いこか~×とことこ」です。
表現するということは、そういうことになります。
自分で物語を作り、自分をとことこ動かして、自分役を演じる。
したいこと、したい役がすぐにできる。飽きたらやめられる。
軽やかで自由でいいんじゃないかな~と思います。
https://www.instagram.com/yakamashi_mayoke/
ひとつの場所でひとつの関係性(自分)に固定されず、いろんな場所でいろんな関係性(自分)を流動的につくっていくこと(遊び)が、人生の息抜きになるんじゃないかと思います。
抵抗すること、自分の思っていることを言うのは、固定された関係性から新しい関係性を自分でつくる意志表明であり、本当の意味でひとに迷惑をかけない秘訣なのではないかな…