もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

ことばの身体性を求めて

いつのまにか6月になり、人形劇が終わるやいなや梅雨入りし

 

かましは即興楽団UDje( )(うじゃ)のフリーペーパー「うじゃーなる」の編集に関わらせてもらっていました。ついに祝発行っ♪♪

 

そんななか

2016年の再結成から毎年恒例になってきたTHE YELLOW MONKEYのライブ…に行ってきました。

 

ライブ…授業も場づくりも仕事もライブだと思っているやかましは思考が

イエモン」と「うじゃ」と「ずぶ」を行ったり来たりしてややこしいです。

もやもやと右往左往しています。

が、すべては同じことと思うのです。

 

生(なま)生音(なまおと)生言(なまこと)

なんと言っても生の音が響く…

そして生の言葉(生言といってみたい)が私の心を打つのだった。

楽器と声の振動。

MC(おはなし)が好き、なんだけど一番好きなのは

声(音)とことばのミックスと、その中間地点。

 

今回のうじゃーなるの座談会では「日本語の難しさ」が議題に上がっていました。

 

ことばを音楽として使っていくときに「アイシテル」は恥ずかしい、「レイゾウコ」はたのしい、のように、ことばによって、かっこよさに違いがある気がするという意見がありました。

 

では、どういうことばだったらいいのか。

 

ナカガワ すごい実感をもって楽しくしてたら、私は別に「愛」だろうが「うんこ」だろうが、それは愛するよ。

 

かましは、この座談会とうじゃーなるの編集で「ことばの中身は意味じゃなくて実感なんだ!」とひしひしと再確認しました。

 

ことばの中身は意味じゃなくて本人の実感。

場や関係性がある中でそのことばでないといけないっていう本人にとっての必然性があるかどうか。

誰がいつ言うのかがそのつど新しい意味になる。

だから本人の意志がはっきりしないことばは抜け殻で無意味で響かない。

 

というマイ結論を得ました。

 

そういえば、「愛」とか「絶望」とかそういったことばが十代のころは全然好きじゃなかったことをライブに行って思い出しました。うさんくさいと思っていた。

「誠実」とか。宗教も怪しいと思っていた。即物的なことばが安心信頼の呪文だった。

だからそのころはそういうことばを歌わないスピッツ(マサムネさん)が好きだったのだった。英語に逃げず(安易に英語を話すことは逃げや迎合と考えていた)、日本語のださくてかわいいところを生かしていて好きだった。

(今も好きだよ)

「愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ」(スピッツ「チェリー」)が「アイシテル」を恥ずかしいと思う多くの日本人の正直な気持ちのように思います。

(知らんけど、のような照れ隠しがいるってことかー)

 

でも二十代になって「愛」や「絶望」に実感がともなうようになってきてから、イエモンの(吉井さんの)歌詞が沁みてくるようになったんだった。

(今は「絶望」や「希望」は普通に使いたくなるワードとなった。「愛」はまだ少なめか…でも日本語を愛しているわたし。今ならきっと他の言語も愛せる!)

 

実感があり、説得力があれば、ちゃんと本人から出たことばであれば、なんでもいい!!!!

空気を読んだり、ひとのまねをしたり、自分不在の無責任な発言、そういうのじゃなければいい。

 

それが、ずぶの学校でたまに開催する句会「かめな句会」のモットーでもあり、そういう俳句(?)が作れること、ことばをつむいでいけることがとてもうれしいです。

夏至に句集を発行します!)

 

自分発のやじるしでゆくマイウェイ(ずぶ俳句)

 

吉井さんのすごいなと思うところは(いっぱいあるけど)、歌を歌っているときに、ことばとからだが一致していることです。昔の歌でも、毎回心からそのことばを歌っているのだと感じて驚きます。

 

「触れられなければさみしいもんだよね~」のところでファンに触りにいったり…ところどころ歌詞を即興で変えたりできたり、よどみないのがすごい…前もって考えているのか、そのとき思いつくのか、訊いてみたい。

 

貫くと一本通ってはやくなるんだろうな。

(これは俳句かもしれない…)

 

ハチャメチャやってても頭はいたって冷静なんだなと思うとかっこいいなと思います。

イエモンのライブはあの人数の多さでありながら、けっこう参加型だと思う。スピッツはコンサートに近い。それもよい。)

 

うじゃにはパフォーマンスの前後に、ひとつ宣言する「木遣り(きやり)」という節のついたことばがある。

ナカガワ ステージの中で、まず私ひとりで「音~出し〜声~出し〜からだをあわせて〜これ〜すなわち〜愛を語ること〜平和を願うみなさまと~ともに~うじゃってまいりましょう〜」っていうようなことを節をつけて言って、最終的には観客もまじえて「あー」だの「おー」だのとひとりで言ってもらうっていう「うじゃ木遣り」をするんだけど、ほんとはあんまりそういう「ことば」を言いたくないんだよって。そしたら金子さん(障害福祉事業所の職員さん)はあれがあるから最後締まるんだよって言うんだけど。わしゃーってやって終わりにするよりかは、こういう思いがあるからうじゃしてるんだよっていう意味をこめて、最後に宣言…じゃないけど、お知らせするっていうコーナーがある方が締まるのは分かるんだけど。私的には…不本意なのよ。ださいのよね。「木遣り唄」は確かに少し北島三郎というか…演歌に似てるね。民謡に近い。

 

実はわたしはエリさんの「うじゃ木遣り」で泣いた経験があります。声や内容にも感動したのだと思いますが、そこまでの流れ(うじゃ)があっての歌というところでことばに多大なる説得力があったのではないかと思われます。

(その旨をお伝えしたら、「木遣りがんばろう!と思えた」と喜んでもらえました。リスポンスって大事だなーだなーもらったら返していかなきゃなー)

 

型でない自分のことばで歌を歌うということを目指したいです。

 

バンドメンバーの関係性

イエローモンキー楽しいんですよ、楽しそうでしょ、みなさんも楽しいですか?!

いろんなことがあってこれからもいいことばかりじゃないだろうけど、 おれにはイエローモンキーがあるからいいやとトイレで思った。トイレでってのがなんか残念だけど…みなさんもイエローモンキーがあるからいいやと…まあそこまでは思えないかもしれないけど…

みなさんの「かくれB級グルメ」でありたいです!

とMCで吉井さんが言っていました(順番はめちゃくちゃ、勝手につなぎました、うろ覚え)。

本当に楽しそうで、ソロの時が嘘みたいです。

(ちなみにソロも好き)

お客さんに向けてやるより前に、バンドメンバーとの関係が最優先だと思う。

誰にするかより、誰とするかが自分にとってまず重要なんだと思う。それがよいパフォーマンスにつながるのは何の仕事でもおなじだー。

したいひとと仕事がしたい。というか時間を過ごしたい。

と思っていたところで、エリさんの

だって私はお客さんとの関係よりもまずステージに立ってるひととの関係、顔の見える範囲の関係を築きたいからうじゃをやってるんだもんね。関係性がないと場を作れないわけで、誰とやっているのかを大切にしたいんだよね。

 との発言に感動しました。

お客様いのちになりすぎるのはどうなんだろうと思う。守りに入りすぎてしまうと何事も廃れる。

もちろんファンがあっての自分たちなのですが、新しいものを作るにはメンバーとの良好な人間関係がないと生まれないのです。冒険できないのです。

 

12年のそれぞれのソロ活動が今の楽しさを裏付けている。説得力があります。

イエモンは結成30周年!!!

うじゃは10年!

ずぶは4年…まだまだひよっこじゃ…

 

ことばの身体性について👇

zubunogakkou.hatenablog.com

 

人形劇したい! やろ~!

とすぐにできたことに感謝。貫いてきている。思い立ったが吉日。

人形劇はやかましの言語になりうる!と実感できました。

(っていうか、こっちがほんとのわたしのことばでは?!)

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