アラン・B・チネン
『大人のための心理童話
心の危機に処方する16の物語』
がおもしろかったので、メモがてらご紹介してみたい。
図書館で借りれました。
ユング派精神分析医である筆者が世界各国のおとぎ話を心理学的に読み解く、というもの。
おとぎ話はおおざっぱに
「青年童話」「中年童話」「老年童話」
などと分けることができ
それぞれ人生の時期ごとに異なるテーマ・課題を描いている。
本書はその中でも「中年童話」にフォーカスし
中年期における「成熟」のための課題を分析している。
つまり、「すてきな歳の重ね方」が書かれと~る✨
ただし、あとがきで河合隼雄氏が述べているように
「今はボーダレスの時代で、青年、中年、老年などのある程度の区別はあっても、それはあくまで相対的なものであることをよく認識しておかねばならない。そんな意味で、ここに描かれている中年の様相は、人生のあらゆる年齢の人々にとって、時に経験させられる可能性をもつと考えた方がいいだろう」
ということで「大人とは?」という永遠の問いと同じく
誰にいつあてはまるか、どこで共感できるかはわからないものなので
潜在的対象年齢は幅広いと思う。
ちなみに隼雄氏は
「思春期」ならぬ「思秋期」ということばを発明し
青年の苦悩と同様か、それ以上に
中年にも成熟に向けた苦しみや葛藤があるのだということを
訴えていたそうです。
「成長痛」ならぬ「成熟痛」なり~
まさに、それな!ですね。
「中年(いい年)になればもう問題はないよね」
ってことにしちゃうのが問題だった。
かねがね「大人にこそ問題がある~」と身に沁みていたので
現実的にはハイレベルかもしれないが
しっくりきた。勉強になった。
向かうべき方向性は確認できた。
青年期は自分の内面ではなく外に飛び出し
理想や勇気を持って冒険し、困難を乗り越えてあらわれる「悪」を撃退し
褒美(地位や名誉や財産、伴侶)を手に入れる(結婚する)という流れになるが
中年期には外に現れる「悪」と思っていたものは
自分の「内面の悪」を投影したものだということに気付き
自分と向き合って建設的に実際的に表現(昇華)していくということが課題となる。
青年童話は善意の青年と悪漢とを、きっぱりと区別する。だから若い男と女は自分たちを善人、すなわちヒーローとヒロインとみなし、他の人々のせいで問題が生じたと考える――ふつうは両親とか教師とか上司のせいで。心理学的用語でいうと、青年はおのれのあやまちや問題を他人に投影(防衛機能の一つ。自己の本能・情緒・観念などを、自己とは別個の外界の対象に属するものと錯覚すること)し、おとぎ話はその経過を反映しているのである。この投影は適応性をもたらす。もし若い男女が自分自身の欠点にくよくよしていたら、危険を冒したり世の中に出ていく気にならないだろう。他人を非難することによって、若者は世の中に挑み、人生と戦っていくことができるのだ。
中年になるころには、ほとんどの人が問題を外部の悪人のせいにするのを止めている。自分の欠点をむしろさっさと受け入れて、生き方を変えてしまうのだ。こうした改善の意志があるか否かは、上手に歳をとった人と、そうでない人との大きな違いになっている。
(「4、役割の逆転」より)
ざっくり言って
青年期は西洋的で派手
中―老年期は東洋的で地味といえるらしく
(隼雄氏いわく、あ、「地味」とは言ってない)
東洋のおとぎ話が多め。
青年期は男性的
中-老年期は女性的
と言えるかもしれないですが、
中年期以降
男性は女性性を復活させ
女性は男性性を取り戻すことが
上手な年の重ね方となる。
若いころは女性は社会的に抑圧され忍耐を強いられるのですが
年をとるにつれ(特に閉経後)解放され主体性や攻撃性を持って
「個性化(「自己実現」とほとんど同義で、人間が独立して統合された存在となる過程)」し
社会全体をよくしていく活動を進んでするようになる。
(開花する男性性を「建設的実際的に表現(昇華)」できた場合)
ほとんどの文化では、女性らしさは月経、多産、育児とほぼ同一視されている。更年期はこの伝統的アイデンティティに終止符を打つものだ。現代の西洋において更年期はたいがい否定的にみなされており、多くの女性が更年期には憂鬱になる。当初、こういう症状は生理的な変化のせいなので鬱屈は不可避だと考えられ、しばしばホルモン注射で対応されてきた。しかし、最近の研究では、更年期にふさぎこむのは、ほんのひと握りの女性だけであること、とりわけ、全人生を母親業につぎこんだ人々であることが明らかになっている。子どもたちが成長し家を出ていくと、こうした女性は個人的充足感の源を失い、おなじみの巣立ち症候群に苦しむことになるのだ。個人的関心や仕事を追求してきた女性は、たいてい更年期を解放だと受けとめる。これは子供のない女性にもあてはまる。更年期が憂鬱なのは、もっぱら、たったひとつの狭い固定観念的な役割――母親――に縛られていた女性にとってなのだ。ほとんどの非西洋文化は、更年期を父権からの解放ととらえている。
(「6、十字路」より)
ひとつの立場や役割に
アイデンティティを固定化しすぎるのは危ういので
人間としての個性を軸にする(個性化を目指す)
のが健康的なんだ、と確認できる。
男性は逆で若いころに栄達や成功を手にすると
あとは受容性やユーモアを持って変化に柔軟に対応していくこと
(閉じ込められた女性性を解放すること)が
テーマとなってくる。
二つの性の「統合」がテーマになり
うまく年をとれたひとというのは
「両性具有」の境地にあるそうな。
また「社会全体をよくしていく」という視点は
男性女性関係なく死に向かっていく命ある存在にとって
自然で重要な課題だ。
(成人の心理の発達を研究した最初の精神分析者エリック・エリクソンいわく)「中年期の基本的な課題は生殖性(次の世代の確立と指導について責任と関心を持つこと)である。これはまず子供たちへの、さらに次世代全体への―生徒や弟子や部下たちへの―教育的な態度として発揮される。生殖性の獲得に失敗すると、老年になってからみじめさを味わったり、心理的停滞を起こしたりする」(略)
大がかりな調査によっても、中年期における生殖性の重要性は裏付けられている。青年期には、男も女もたいてい個人的な達成や満足しか考えていない。しかし、中年になると、彼らの関心は人道主義的なものに移り、しだいに多くの時間や金を他人のために使うようになる。成功した人間は、年下の人々が仕事で功績を上げるために熱心な助力を惜しまない。ウィーンの心理学者エルザ・フレンケルもカール・ユングも、おのおの、「わたしはこうしたい」というのが青春を支配する、かたや成熟を支配するのは「わたしはこうしなくてはならない」である、と述べている。すなわち、中年では、責任ある生殖性が個人的な満足にとって代わるのである。
生殖性はまた、自分自身の仕事への貢献というかたちになって現れる。フロイトは、愛と仕事は大人の生活の基本であり、仕事への没頭は愛と同じように生産的である、と述べている。芸術家はその創造的欲求に従うために多大な個人的犠牲を払うし、科学者は知識のために長時間の仕事をするし、いい管理職は自分の下で働く人々に責任を感じる。
(「2、魔法の秘蔵」より)
この「生殖性」というのが大きな意味での(真の意味での)「教育」であり
生殖性を持つことが「愛のある仕事」につながるのではないかな?
貧しい靴屋の主人がある日、作りかけの靴を置いて家に帰り、翌朝店に来てみると完成された見事な靴があった。そういうことがしばらく続き、次第に店は繁盛するようになった。クリスマスが近づき、主人と女房は「よなよな手伝ってくれている人をつきとめてお礼をしよう」と考える。夜仕事場に隠れていると、二人のはだかのこびとがダンスをし歌を歌って靴ができあがっていくのを目撃。感動した夫婦は、二人のこびとのためにブーツと上着とズボンを作り、クリスマスイブの夜、仕事場に並べて置いておく。またしても隠れて見守っていると、贈り物を喜んだこびとたちが月光に消えていくのを見て満足する。しかし次の日からこびとたちはあらわれなくなり、「何か悪いことをしたかなぁ」と首をかしげつつも、靴屋はこびとに負けないほどの靴を作れるようになり、夫婦は生涯幸せに暮らした。
「なぜ強欲ではない靴屋が魔法を失ったか?」
についてはこのように考察されている。
魔法の力を持っているのはこびとである。そしてこびとたちのもっとも顕著な特徴は、裸で自由気ままだということだ。無邪気でいたずらな彼らは、社会的慣習や自意識という重荷をまだ負わされていない。こびとたちは、子ども時代や青年期の天衣無縫な精神を擬人化したものなのである。魔法のこびとが姿を消すことは、大人になり、遊びが仕事へ、無垢が責任へと場所を明け渡す避けがたい経験を象徴しているのだ。(略)
これらの物語は、意識や知識の発達が、青春の魔法を破壊することを示している。ただしアダムとイブの物語では罰として魔法を失うとほのめかされているが、『こびとと靴屋』ではその反対のことが強調されている。靴屋と女房は思いやりのある行動をとったにもかかわらず、やはりこびとの魔法を失ってしまうのだ。他の中年童話でも、魔法の喪失は倫理的な事柄ではなく、発達上の出来事だということが強調されている。それは罰ではなく、単に成長の結果なのである。
こびとたちが去っても、靴屋は身を持ち崩さない。彼自身の技術や秩序にはまったく影響を受けないのだ。彼はふたたび靴づくりに励み、店は繁盛する。ここに、この物語の真実、愉快ではないかもしれないが重要な真実が存在する。すなわち、青春の魔法のあとには、労働が待っているのだ!
この物語はそのテーマについて巧みに語っている。そもそも靴屋という職業からして象徴的である。主人公は靴を作る。これはごく平凡な仕事だ。靴づくりはありふれた、汚れ仕事といってもいい作業なのである。だが、そこにこそ、重要な意味が存在する。つまり、これは地道な生活に落ち着くことを表しているのだ。(略)
中年童話における靴は魔法ではなく労働と、そして魔法の王国ではなく実際的な日常生活と結びついているのだ。
私は大人たちの課題は、
青年童話に加えて中年童話への理解を深めつつ
生殖性を培うことと同時に、
このはだかのこびとたちのような「天真爛漫なこどものこころ」
つまり、自由自在、縦横無尽のクリエイティビティ
を折々に思い出すこと、片隅で忘れないことではないかと思う。
靴屋の主人はそれを取り戻したので
こびとたちがあらわれなくても別に悪いこと残念なことではなく
それが自然で、それでよかったのだと思う。
それが「罰ではなく、単に成長の結果」ということじゃな?
もう主人の心の中にあるから
目に見えなくなったんやな~きっと。
実際最後にはこびと以上の靴を作れるようになる!
「労働」の中に「魔法」が内在するようになった!
それが真のプロ?! 真の大人?!
大人は「別れ」のような一抹の寂しみを抱えているよね、思秋期。
創造には通常、意識的な判断と意志による緊張、そして子供の無邪気さを連想させる天真爛漫さといたずらっぽさが、ある一定の割合だけ必要とされる。もし監視されたり、批判されたり、無理強いされたりしたら、この魔法のような創造性はたちまち消えてしまうのだ。
私も「旧ずぶ邸」は自分にとっても人にとっても
「監視」「批判」「無理強い」から逃れて
こびとを思い出す(忘れない)場でありたい
けれどもできるところまで続けていきたいという気持ちもあり
多少の労働の要素も必要で
魔法と労働を同時並行でできる範囲の…
魔法が労働みたいな…(ややこしいで)
中途半端であいまいなあわい
でやっているところです🎵
冒頭の方にも書きましたが
青年、中年、老年というのは
生まれて死ぬという時間軸で人間をとらえたときの便宜的な分類であって
人生の中にはいつでも、それぞれの要素があるのが普通なんだと思う。
歳をとれば前の時期の課題がなくなるわけではなく
色が層になって重なっていくような感じ
歳を「重ねる」とはよき表現じゃ。
を想像します。
反対に歳をとっていなくても年齢は常に相対的なものなので
環境によっては中年や老年期の課題が濃くなる場合もなきにしもあらず。
なんでもほいほいくれたおばあちゃん
(祖父母の孫へのまなざしは生殖性のかたまり)に
「これ(かわいい小箱)ちょうだい?」と軽くきいてみたら
「ん~~それはあかん…」
と言いにくそうに答えたとき
そんなちっちゃなどうでもいいことでさえ生殖性を発揮しつつも
自我との葛藤をしている
老年期(私から見ての話)の中に青年を見て
そうであってほしい!
とほほえましく
その若さと対等さ(祖母―孫から人間―人間へ)
がうれしくなったことがある。
生殖性
いつもは必要ない。
母も先生も上司も、いつも犠牲的、社会貢献的である必要はない。
無理。限界がある。なんでもやりすぎは怨念になっちゃったりする。
重大で肝心なとき、できるところだけ。
自由自在、縦横無尽、天真爛漫、天衣無縫との引っ張り合いをしながら。
おとなとこどもの両面具有、
どっちつかずな揺れの地点がいちばん人間らしいと感じる瞬間🤩
こちら続編の『成熟のための心理童話』から入りました~