もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

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なんクルクルないさぁ~♪

ずぶぬれ vol.14 リュックサック革命

 

ずぶぬれ vol.14 表紙


▽緊急事態に強い旧ずぶ邸は今のところ週休六日でひっそりとオープンしています。「紙もの・布もの・落としもの 長持文庫(ながもちぶんこ)」にはお買い物のお客さんが時折来てくださいます。狭い店内を長い時間をかけてぐるぐるまわって楽しんでくださり、その時間は私もお店屋さんになることができて嬉しいです。

 

▽ある日、お母さんと小学二年生の女の子がやって来ました。女の子はご近所の常連さんで、すでに何十回となくぐるぐるしていたので、私よりも商品に精通しています。全財産2500円の入った財布を持って「何かを買う!」といってぐるぐる。「お金を使いたい!」とのことでした。1時間ほど悩んだ末、2000円の服と300円のカップ&ソーサ―を買うことに決定。アグレッシブな心意気に打たれたので、お気に召したらしい靴下の猫(昔作ったもの。靴下だったので非売品)をプレゼントしたら、とても喜んでくれました。小さいときおもちゃのレジとか自作のお札であそんだなーと買い物の原風景を思い出すようなひととき。能動的な消費は「自己表現」「未来への投資、賭け」になり得るし、満足というのは循環なんだと再び気づかされました。

 

▽信念や愛のある仕事、個人にできる限り払いたいと思うのですが、難しい。学校や習い事は運営する側の生活がかかってしまう点が、規模が大きくなればなるほど、本末転倒の諸問題発生の一因になりがちだと感じていて、そうでない形の場の持続的可能な運営方法を模索したいとかねてから思っていました。お金が人間関係に与える影響や大なり。保護者の力が必要以上に強くなってしまうのも、こども自身が(たとえ親からもらったお小遣いであれ)自分で行きたい学校(場所)にお金を払うとしたら? なにか変わるかもしれない。立場、年齢を超えて、「対等」に近づける気がする。(小学生から巻き上げた…という良心の呵責もきっと年功序列の古い価値観に基づいてるのでしょう)その一歩を踏み出してくれた女の子とやさしいお母さんに感謝。

 

「この世界がリュックサックを背負った旅烏でいっぱいにならなくちゃーだめだと思うよ。そして社会の一般的な要求、すなわち生産物を消費せよ、そして消費することの恩沢にあずかるために当然働くべしという要求を断乎撥ねつけてゆかなくちゃーね、ぼくらはみんな一つのシステムに閉じ込められてしまっているんだ―働き、生産し、消費し、働き、生産し、消費するといった体制の中にね、ぼくは将来偉大なるリュックサック革命が達成されたときのこの世の姿を夢見ずにはいられないな、つまり幾千、幾百万とない、若者たちがリュックサックを背負って放浪している世界だよ、山へ登って祈るもの、子供を笑わせ、老人を喜ばせるもの、若い娘を仕合わせにし、年配の女性をさらに仕合わせにするもの、彼らはみんな禅の修行者で、詩を作りながら各地を遍歴している、その詩というのがね、何の理由もなく彼らの頭にふっと浮かんできたものにほかならないのさ、それから彼らは思いやりの気持ちを大切にしながら、また、何か不思議な、予想もつかないような行ないを示しながらあらゆる人びと、いや生きとし生けるものことごとくに、永遠の自由の行き渡るこの世の真の姿とはどのようなものかを教え続けてゆくんだ」

(ケルアック『禅ヒッピー』より一部省略)

 

▽流されるまま、速さ、安さを追求した大量消費はとっても楽なんですが、結果自分の生きる気力を削いでいきます。物と同じく人間も、速さ、安さを求められ、消費され、廃棄される社会です。巻き込まれ、飲み込まれ、振り回されるばかりでは、なぜ生きているのか、自らの存在意義を見失ってしまいます。自分の好きなもの、あってほしいものにお金を払い、行きたいところ行き、したいことをすることに時間とエネルギーを費やす、積極的なギブによって自分の夢や望みをかなえる方、幸せや生きがいを感じられる方をこころざしたい。システムに舗装された道ではなく、自分の足で踏み分けて拓いた道をゆかなくちゃーね。リュックを背負って一歩ずつ。

 

かまし みさき

1986年大阪生まれ。中・高国語教師をしながら15年にゆるいまなびや「ずぶの学校」を開校し、校長に就任。人形劇や文集を作っています。写真は7月の人形劇で演じた、校長扮するコントンさん。

 

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