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旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

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いんとんこんとんらいふ

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かわいい文学教室😸 ~「吾輩は猫である」の巻③~

222は猫の日なのですね😸

 

前回はわたしの替えうた(?)をひろうしましたが

zubunogakkou.hatenablog.com

 

 

今回は小学生の作品を紹介させてもらえることになったので

ぜひごらんください😸

絵がとても上手❣

<第一段>

吾輩の主人はめったに吾輩と顔を合わせることがない。

職業は教師だそうだ。

学校から帰ると終日書斎にはいったぎり、ほとんど出てくることがない。

家のものは大変な勉強家だと思っている。

当人も勉強家であるかのごとく見せている。

しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。

 

(小学校五年生の作品)

吾輩の主人は、めったに机に向き合うことはない。

職業は吾輩も知らない。

どこからか帰ってくると吾輩が入っていたこたつに入ってくる。

家のものは吾輩の気持ちなど知らない。

当人は自ら勉強しているかのごとく見せている。

しかし実際は、うちのものが思うような努力家ではない。

 

「知らない」「どこからか」

とぼんやりさせることで、いろんな想像ができ

先が気になりますねっ

ちょっと不穏な感じもするっ

 

「勤勉家」を「努力家」と

自分の知っていることばに変えるのも(・∀・)イイネ!!👍👍

 

<第二段>

吾輩は時々忍び足に彼の書斎をのぞいてみるが、

彼はよく昼寝をしていることがある。

時々、読みかけてある本の上によだれをたらしている。

彼は胃弱で皮ふの色が淡黄色を帯びて

弾力のない不活発な兆候をあらわしている。

そのくせに大飯を食う。

食ったあとでタカジャスターゼを飲む。

飲んだあとで書物をひろげる。

二三ページ読むと眠くなる。

よだれを本の上へたらす。

これが彼の毎夜くりかえす日課である。

 

(小学校五年生の作品)

吾輩は時々忍び足に彼のノートをのぞいてみるが、

所々にラクガキがあることがある。

時々、本のたくさんある場所に寄り、なにやら読みはじめる。

彼は勉強らしきことを終えると、

なにやらリモコンらしきものを取り、画面をつけはじめた。

夕飯になるまで、ずっと動く画面を見ている。

何がおもしろいかは吾輩には分からない。

夕飯が食べ終わり、また動く画面を見はじめた。

もう何時間見ていることやら……。

――しばらくしたら動く画面を消し、

音の鳴る道のほうへ行く。

行かない時もあるが……。

吾輩はその道をたまに歩くけれど、おろされてしまう。

なぜだ……。

――また音の鳴る道にふたをしたかと思ったら

明かりを消され、どこかへ上がっていく。

消灯の合図だ。「おやすみ」

これが彼の毎夜くりかえす日課である。

 

「書斎」を「ノート」にしたことで

より具体的になり、情景が目に浮かびました。

そこでラクガキ発見!👀

 

猫が「テレビ」や「ピアノ」を知らないという設定で

「動く画面」「音の鳴る道」

と変えたのもおもしろ~い!

 

消灯の合図だ。「おやすみ」

はリズムもいいし、セリフが入ることで

臨場感がありますね~

 

私のようにただ文字を追うのではなく

猫と暮らす実際の生活に即して、自分流に

オリジナリティあふれる作品になっていますねっ✨

 

 

<第三段>

吾輩は猫ながら考えることがある。

教師というものは実に楽なものだ。

人間と生まれたら教師となるにかぎる。

こんなに寝ていてつとまるものなら猫にでもできぬことはないと。

それでも主人にいわせると、

教師ほどつらいものはないそうで、

彼は友達がくるたびになんとかかんとか不平を鳴らしている。

 

お楽しみの結末はどうなるかというと…

 

(小学校五年生の作品)

吾輩は猫ながら時々考えることがある。

人間は同じことをくりかえしてあきないのか。

それとも吾輩が知らないところで何かしているのか。

……どちらにせよ、知ってみたいものだ……と。

 

人間は、同じことをくりかえしてあきないのか。

 

と言われると、少し

ドキッとさせられます。

 

自分の、自分しか知らないはずのだらしない部分を

実は声なき者に見られている設定

というのはおもしろいものです。

 

それを自分で自分にやってみるのは

ひとつの内省、自問自答としても

有効な方法なのではないでしょうか。

かわいい😸

 

注意点は、おとながこれをこどもにやらせたとき

生活面において

どこどこを直すように

とは言わないことかな、と思いました。

 

自分で気づいている(気にしている)

ということがもう分かるし

変えるかどうかは本人の選択だから…

 

親御さんは我が子には

自分に対するように厳しく

つい言いたくなるのはやむを得ないかもしれないので

親子より関係のゆるやかな学校、あるいは別の場所で

行われることの必要性をいささか感じるとともに

 

文章を書くことと道徳、生活の問題は

一貫してはいるが

こどもであっても他人にもの申すことができるものではないこと

尊重されることで、気長に待たれることで

自分でどうするか決めようとする力がはぐくまれていく

という悠長な希望を抱いています。

 

文学は反社会的、反道徳的なこと(本音)をあえて書くことで

現実に対する憂さ晴らしの効能を発揮するものでもあるでしょう。

 

文章に関しても

まちがい(?)の指摘や

もっとこうしたら的なアドバイス

二の次、三の次で

(本人が求めたらで)

まずは興味や意欲をのばしていくことが

最も重要なことだと思いました。

 

学校でやっていたときは

「国語の教師」という立場上、

ある程度の正しさ

(こまかいこと、どっちでもいいこと)

にこだわっていたかもな…

(それはそれで「学校」の役割なのでしょう)

 

などなど

さまざまな気づきのある時間でした。

 

カールはおいしい😋