もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

誰かのために何かしようとしているときが一番自分らしい

 

今年の初めごろ、たまに遊びに行っていたフリースクールで餅つきがありました。終わったあと広い教室(?)をぶらぶらしながら本棚を物色していてふと手に取った本「野ブタ。をプロデュース」。

 

「友達地獄」という何年か前にセンター試験にも出て、はやった新書の冒頭にこの話のことがありました。そしてドラマの方の脚本は、夫婦で脚本を書いている木皿泉「すいか」や「Q10(キュート)」を一年程前に見ていたので、「野ブタ。」にも興味がわきました。

 

(以下ネタバレも含みますが、ざっくりとした感想です。)

 

冒頭は「辻ちゃん加護ちゃんも卒業らしい。」ではじまり、自分が高校生のころの時代の文化にマッチしていたので懐かしく、読み始めると止まらなくなってしまいました。ケータイも、LINEではなく、メールの時代。ルーズソックスの時代。注釈がなくても読めるなんて。これが同時代同世代の小説か!

 

主人公は高校二年生の聡明な男子生徒桐谷修二。クラスの中心で、男子も女子もうまくかわしたり、ちゃかしたりできる口達者な人気者だ。打算もあるが(その自覚があり)、愛もあり、やさしさもあり、無能な教師ばかりの学校で彼がいないと世界がまわらないのだが、そのことに彼と同じ次元で気づいている者はいなかった。

 

転校生の「信太(しんた→野ブタ)」はむさくるしい男子生徒で、すぐにいじめの対象になっていくが、あるときいじめられているところに修二がたまたま通りかかり、うまいこと助けると野ブタに「弟子入り」の志願をされます。

 

時代は「プロデュース」の時代ということで(それでアイドルの話が冒頭にあったのね)、よし! 人気者にしてやろう、といろいろシナリオ(物語)を考え、教室や学校を舞台に身を挺して演じはじめる。クリエイティブ!

 

いじめを見て見ぬふりする(気がついてもいない?)教師たちに対し、桐谷修二はテンプレではない行動(オリジナルのシナリオ・唯一無二の物語)の数々で見事に野ブタをクラスの人気者にしていく。

 

「これだってほんとはお前たち(教師たち)の仕事じゃないのか?」

 

げにげに。ほんとうにそうですよ。

修二は私の好きなタイプ…てんびん座だ!

 

シナリオが功を奏して野ブタはどんどん人気者になっていくのですが、反対に裏方の持ち上げ役にまわりすぎた修二は、ある事件をきっかけに周囲の人たちからの信頼を失い、孤立し、男友達からも、彼女ではないが周囲からは彼女だと思われていた女子からも、野ブタからも理解されないまま、学校を追われることになってしまいます。

 

えーーーー?!

 

ショックだった。こんなにがんばっていて、「わたしだからできたのだよ(by 太宰治)」なことばかりなのに。誰かわかったれよ。ちゃんと見てあげろよ。修二は言語を持っていて、いつも「見てあげる」側で、「見てもらう」側にはなれなかった。誰からも内面を見てもらえず、理解されなければ、いないことにされ、排除される…。知っていたけど全く救いのない結末にショックを受けたが、これがリアルだと思った。さすが作者22歳で書き上げただけのことがある。22歳に救いはないよな。そんなぬるいまなざしはない。

 

悲しいので、家に帰ってからつきたての餅を食べながら続いて木皿泉脚本のドラマを見ることにした。木皿泉が最後どんな風にするのか、救いのないようには描かないだろうと期待して(救いを求めて)。

 

ドラマでは、修二が亀梨くん、野ブタ堀北真希、そして修二と野ブタの間に小説にはいない彰という人物、山Pがいる。一見すると、二人のイケメンが、いじめられっ子の女の子をかわいい(?)人気者にする、というような、漫画でもよく見るありきたりな構図に見えるが、だんだん、野ブタ堀北真希と山Pの二人に分割したのかなという気がしてきた。原作でも確かに修二は本当に心を開ける「友達」はいないのだが、野ブタに対してだけは、プロデュースをするいきさつ上、最初から本音を話しているのだ(ただ残念ながら原作の野ブタにそれを同じ次元で理解する力はない)。

 

ドラマにはあちこちに救いがあった。野ブタがいじめられて、クラスの女子に追いかけられて逃げ込んだ先は、町の古本屋「強欲堂」。店主はなんと忌野清志郎さんだ(号泣)。かくまわれた野ブタが「全然違う世界。こんな世界があるんだ…」というと店主は

 

「私が作った!」(どーん)←ワンピース風に

 

という(再び号泣)。神! 創造主! まさに「アジール(避難所)」。

 

ブレザーの背中にペンキで「ブス」と書かれたとき、修二が生徒手帳の校則の中に「制服が着れない状態にある場合は私服を認める」という項目を発見して利用しようと思い立ち、野ブタが担任に私服の許可をもらいにいくと、担任は今日は校長がいないから自分では判断できないから、また明日来てという(あるあるの責任者不在のたらいまわし)。

 

すると教頭の夏木マリが出てきて、「あなた背中に小心者と書かれた服を来て学校に来れますか? 明日もこれを着て学校に来いと? 私が責任をとります!」と言って即ハンコを押してくれる!(泣)そういうこと! それを欲してた。すでに傷ついてるのに無関心の追い打ちをかけないで。

 

卒業生から高校時代の話を聞いたことがあります。私がその方に会ったのは彼女が高校三年生のときで、それ以前の話でした。クラスメイトからいじめにあっていた。原因は担任の若い体育の男性教員なのだが、そのひとは逃げた。彼女がひとり校長室に呼ばれ、校長と学年主任に事情を聞かれたから、ぐちゃぐちゃにされた教科書を見せたところ、校長に「どこが悪かったと思いますか?」と聞かれた、という…

 

なんやそれ?! ぐちゃぐちゃにされた教科書も、それを出した自分もむなしいやないか!

 

「いじめ」をなかったことにしようとしてるん???

いま目の前にあるのに??? 目の前に傷つけられたひとがおるのに???

いじめられた方が悪かったと??? だから「指導する」と。そう、教師には「指導する」というコマンド(テンプレ)しかないねん。これがリアル。

 

THE 仕事してるふり!

 

このドラマ(木皿泉作品)で共感するところのひとつは「付き合う」や「恋愛」というやつが出てこないところかもしれない。というか、そういうことに懐疑的である人物が主人公になっている。

 

周囲からは彼女だと思われているけど、はっきりと「付き合う」ということをしているわけではないマリコ戸田恵梨香)に対して曖昧な態度をとっていた修二が「自分は人を好きにならない」という宣言をするところがある。「(マリコが思うようには)好きにならない=「付き合う」ということをしない」という意味で、好きでないわけではなく世界観の溝を言語化したものか。

 

彰(山P)が野ブタを「好き」だと気づいて(?)「所有(独占)欲」や「嫉妬」の感情も出てくるのだが(「頭の中では何を考えても自由!」という夏木マリのセリフがある)、がんばってコントロールして最終的には「修二といるときの野ブタが好き」(ポリアモリーの完成)と言う。そういうことやねん。それで円満で、それが大団円で、意志でテンプレに流されないようにしてしっかり相手を一人一人を見とめるところがいいと思う。流されるとひとを無意識に傷つけるから。

 

 

夏木マリ

「頭の中では何を考えても自由。私なんか何人人を殺したかしれない」

「おそれるな」と修二に耳打ちする!

 

野ブタは人気者になるための努力や我慢が足りない、修二は甘やかしすぎと他の女子に言われて)

「甘やかして何が悪いの?」

 

(修二が小学生の弟のために自分も引っ越すことを決めたとき)

「誰かのために何かしようとしているとき、一番自分らしい」

 

好きなセリフだ。

ドラマでは救いようのある大人が何人もでてきて、厳しい現実に慣れきった身には逆に驚かされる。そんなひとおる?!ってなるけど、嘘でもいると信じたい。そしてあわよくばそういう大人になりたいと思う。

 

自分のことで怒るのは難しいから他のだれかに任せたいと思う。そして自分は、他の誰かのために祈り、怒りたいと思う。それが自分なのだ。

 

※「ポリアモリー」の考え、試みとは

zubunogakkou.hatenablog.com

 

 

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