もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

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ずぶの学校新聞 no.34

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~Learning by doing~

 

高校三年生の最後の授業で、試験もなく成績も出さない余白の8時間がありました。入試の問題演習をするのがオーソドックスな消化方法だそうですが、せっかく何をしてもいいなら、もっとおもしろいこと、前代未聞で、未知に賭ける、有意義な時間にしたいとずっと考えていました。

 

この授業は、四月から試験が終わるたびごとに、悩みや質問や好きなことなど、ざっくばらんにおたよりを書いてもらって、それをシャッフルしてクラスのみんなに紹介しながらあてるというラジオ番組形式の古典の(そうだった!)授業でした。

 

FM302「BUONO BUONO TIME(ぼのぼのたいむ)」

BUONOボーノは、イタリア語で「おいしい」という意味があるらしい

いがらしみきおさんの「ぼのぼの」が好きなので

 

最初は私への質問が多めだったのですが、だんだん自分のことを書いてくれるようになっていったのは嬉しかったです。授業には全く関係のない質問の答えを真剣に考えるあまりに、何を訊こうと思ってたか忘れることもしばしばありました。が、私としてはそれでもよくて、余談やその場で生まれたやりとりや思い付きこそがライブで「あなた」と「私」が教室にいて、交換不可能な、唯一無二の時間を過ごせる、授業の意義だと信じています。

 

最後の8時間は一年の集大成として、職員室前にポストを設置して常時おたよりを募集しつつ、冬休み以降はメールで写真やエピソードを送ってもらって電子黒板を駆使して見せたり、好きな音楽をリクエストしてもらってスピーカーで流したり(携帯は単に禁止するのではなく、もっと授業で活用したらいいのではないかと思った)、その曲に合わせて前で踊ってもらったり、自分の話をしてもらったりといろんなことをしてもらいました。誰かがアクションしないと成り立たない50分で、毎回ほぼ賭けでしたが、このクラスならばできる! やってくれる! と信じて教室に向かっていました。

 

おたよりが尽きた時、すっくと立ちあがって音楽をリクエストしてくれたり話してくれたりした子には本当にありがたい、嬉しい気持ちでいっぱいでした。普通のクラスと違って声の大きい一部のひとだけが盛り上がるということもなく、多くのひとが自分のこととして協力的に動いてくれたし、普段声の小さいひと(あまり発言しないひと)の話にもじっくり耳を傾ける瞬間があったので、温かい、ハートフルな時間をみんなで作れたのではないかと思います。

 

8時間の授業のダイジェスト

【私のしたい授業についての回】…電子黒板の導入

【年末年始の過ごし方の回】…おもしろ写真、一年の抱負など

センター試験応援の回】…「がんばれ」以外の応援方法の模索、ダンス、音楽

【クラスメイトを具体的に褒め合う回「拍手会」】…「大人」とは何かについて考える

【脱テンプレ卒業式】…5人の有志の代表による卒業のことば(テーマソング付)、ビデオレター(最後の授業を入試で欠席する生徒作・出演→別の生徒の動画編集作品)、見に来てもらった先生による祝辞、クラスの思い出を歌詞にした歌(担任の先生原曲/生徒作詞作曲)

 

またこの授業の背景には、自分からアシスタントをしたいと申し出てくれた子がいたことも私の心を支えてくれました。どんな授業がいいか、そのためにはどうすればいいかを相談できる相手がいたのははじめてで、先生という立場では分からないことや行き届かないことを教えてもらい、改善策を一緒に考えてもらうことができました。毎時間終わった日の放課後に反省会(という名のおしゃべり?)、さらには陰に日向に動いてくれることさえあって、それだけでクラスの雰囲気が大幅に変わるなぁと実感。しかも回を追うごとにじわじわとアシスタント仲間(同志)が増えていくのも幸せなことでした。ミーティングの存在を知らなくても、自分は関係ないと思わずによく分かって動いてくれるひとたちもたくさんいました。

 

 一人が少し動くだけで、全体が大きく変わる。

 

 何か行動してみると、思い通りにいかないことの方が多いし、学校や教室の、自分の問題点も浮き彫りになったし、こういうことがしたいわけじゃなかったという発見もありました。でもそれは、自分が動いたから分かったことで、動かなかったら何も気が付かないし何も変わらなかったんです。自分から行動することにしか学びはないと思います。

 

 Getting better begin to make it better!

(「WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント~」)

 

「自分」が不在のまま、試験のためだけに知識を増やす作業を続けていけば、いつかつまずくと思います。その場その場で知識や経験を応用できる「自分」がいなければ、何のための勉強でしょうか。そして、何のために応用するのでしょうか。それは自分の利益のためだけでなく、社会全体の幸福のためであってほしいと願います。自分というのは一人で生きているのではなく、周りのひと(社会)に許し、生かしてもらってはじめて生きることができるからです。

 

知らん顔をするということは、知らん顔をされるということ。自分をさらけ出して表現して、みんなに与えることでようやく大勢に見止められて存在できる。居場所(環境)は自分で作るのです。今いる場所で、自分を生かしたいならば、表現して知ってもらうことがまず第一歩。何もしないで、見ているばかりで、他人を笑ったり、批判したりする「自分」不在のサイレントマジョリティを分解したい。それは、今の私の課題であって高校生の私にできたかどうかは全然自信がないけど、高校生だからまだはやいとかできないとか思うこともよくないと思ったのでチャレンジしてみたのでした。

 

「行動」という表現の中でも、私の最終目標は「ことば」でした(ことばを発するのも行動のひとつ、そして国語!)。私の中では新種の「作文」の授業のつもりでやっていました。強制的に書かされた文章ではなく心から書きたいと思って書いた文章が読みたい(ポストも工夫してみたんですがどうだったかな?)それも自分のことを、技巧じゃなく自慢じゃなくてみんなのために書いてほしいと思っていました。みんなのためにというのは、みんなに何かを「教える」とか「伝える」とか上からのアプローチではなくて、みんなと同じ高さで自分に起こったこと、自分の思ったことをそのまま書いてくれるだけでいい。するとみんなは自分との違いが新鮮だし考えさせられる。それがみんなのために書く(行動する、表現する)ということだと思います。「全体」への意識が高まるにつれ、自然とおたよりのクオリティも上がっていくということも目の当たりにしました。ただ、自発的に文章を書くというのは慣れていないとやはりハードルが高いのだとも再認識(強制との葛藤)。

 

普段話をしないひとの考えていることを聴く、あまり知らない大勢の人に向かって自分のこと話すという経験をすることが、わざわざ毎日通う学校で、授業でできる貴重な体験のひとつだと思います。教科書から学ぶだけならば自分ひとりで家でもできます。身近な人間から学ぶこと、影響を受けることの方がもっと長く深く自分の中に息づくのではないでしょうか。

 

 幸せは~歩いてこない だ~から歩いてゆくんだね~

(「三百六十五歩のマーチ」)

 

 ひとりひとりが一歩でも動いて全体が幸せのほうへ進めたとしたらよし!

 

 

え・ぶん―DJあかまつみさき

 

 

僕の楽しい思い出 力を合わせた音楽会

(↑ここまで担任の先生が小学生の時に音楽の授業で作詞作曲)

(↓ここから生徒作詞作曲)

今宵もう一度 夢の音楽会

さあみんなで乗ろう 第一便の船に

思いを行動にしなきゃ意味がない

自分だけの基準探しおのれを持て

話し足りなすぎた帰り道

はじめてのローファーの靴擦れ昨日のよう

ドッキリをしかけたり日誌も自由帳

力合わせた思い出刻み込め

ほら毎日を思い出して

教室に響いてる笑い声

 

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おたより投稿ポスト。センター四日前の生徒と工作。

おいしいおたより待ってます。