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ずぶの学校新聞 no.20

~教室(まち)の温度をあげる「余談」~

 

 

ついに今月、ずぶの学校のフリーペーパー「ずぶぬれ」を刊行します。

 

「まちのおとぼけ余談集」と銘打って、まちのひとに思い思いの四方山話をしていただこうと考えています。四方山話といっても、あたりさわりのない世間話ではなく、「自分の話」をしていただきたく思っております。

 

教室が冷たく無味乾燥になるのは、先生が教科書を棒読みしている時間です。今まで何度も誰にでも話してきたことを機械的に読んでいると、教室の温度が下がっていきます。

 

先生が楽しそうに自分に起こった出来事や、思ったことを正直にリアルに生徒に語りかけると、生徒の目は生きてきます。「余談」こそが、授業のいのちといっても過言ではないと思っています。(「余」というのは先生が体裁を保つためにつける謙譲語)

 

生徒にしてみれば、「自分」に特別に話しかけられているという喜びなのかもしれません。そのとき、その場所にしかないもの、固有の関係性が生まれることが、教室で、ライブで授業をすることの最大の意味だと思っています。

 

ずぶの学校は、まち(=社会)を教室と考えて活動しています。まちにどんなひとがいるか分からない状態では、みんな不安で家に閉じこもり鍵を閉めます。

 

そんな中、ずぶの学校の先生は、勇敢な大人です。

 

危険を覚悟の上で、率先して自分をさらけ出し、楽しいお話を聴かせてくれるひと。

社会を担う一員としての当事者意識を持って前に立ってくれるひと。

そんな先生たちが「ずぶぬれ」に集結し、まちをゆるく、にぎやかしてくれています。

 

11月、人生初の占いをしてもらいました。

 

結果の中に「社会と関わっていくことで幸せを得られる」という診断がありました。

 

え?! 本当に?!と目からうろこでした。私は自分の社会性のなさがすでにアイデンティティになっていたのですが。よくよく考えてみると、思い当たる節がなきにしもあらず。(なんでも思い当たる癖あり……)

 

私は「盲目的に郷に従う」ということが苦手なので、「郷」という意味の小さな社会にわけもなく従うのが嫌なのかもしれません。

 

有無をいってしまうタイプで、世間知らずなためにあらゆることに懐疑的で、ややこしい人間です。いわゆる「中二病」?「空気が読めない」? いや、たとえ読めたとしても、疑問を持ったらあえて破ってしまいたくなります。

 

それにしても、世間知らずって、どれほどのひとが世間を知っているというのだろう。知らないことを知ったかぶりするより、正直に知らないといえることの方が尊いと思います。がんばれ、坊ちゃん。

 

世間や社会って、本当はもっと広いのではないかと思います。

 

いろんなひとがいて、いろんな考えを持って暮らしている。それを見て、聴いて、学んで、自らを省みるという姿勢が、真の社会人には必要なのではないでしょうか。

 

郷は社会の一部であって、全てではないと思うのです。とりわけ真の社会人であるべき、ひとの上に立つ人間にこそ、自分が立っている郷が全てではないことを認識し、柔軟な姿勢を持ち続けてほしいし、私もそうありたいと思います。

 

ちなみに、私がずぶの学校を開いたきっかけの一つに、授業における自分の余談に限界を感じたということがあります。

 

前に立つことを仕事にしているだけでは、話す内容が本から得た知識や記憶しかない……と感じました。生徒は学校の外のお話、その人の生き方に興味があるのです。

 

学校外での経験を積みながら、余談の腕を磨いていきたく、また、そんな私の趣味にまちに住むみなさんを巻き込んでいきたく思っています。(占い通り!)

 

そんな野心や志のある方には是非是非投稿していただきたく思います。こっそりと実は互いに切磋琢磨しているような、あそびのあるまちになればと願っております。

 

 

あかまつみさき

(願っていたことが実現しつつある11月でした。この調子!)

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12月9日(漱石忌)に発行しました ずぶぬれvol.1の表紙