前回は、エリさんにお借りした上田紀行さんの『覚醒のネットワーク』を読んで感動したおはなしでした。
読んでいたら全部引用したくなってきたので、少し休憩しました。
是非本を読んでみてください☺
その後、秋分の日の夜は、おともだちとずぶ邸の庭に突如あらわれた彼岸花をライトアップして見ながら彼岸を祝いました。お彼岸には故人が好きだったものや旬のものを食べるといいということで、なす、オクラ、ズッキーニ、ししゃも…などなど、クッキングしました。
自分が食べているものや旬のものがわからないことは、自然から離れている…というか自然のサイクルの中にいるのが感じられなくなっているという危機感もあり、苦手ながら少しずつでも考えるという小さなデモです。
実は、和綴じ本「和亀作り」も、「俳句の会」もそういうデモでもあります。ことば(季語、暦)から季節、自然の感覚を取り戻す。
その日は、アジア図書館の倉庫の移転にともなう蔵書整理のお手伝いに行き、『The Sun People』という古代マヤの人々の生活を描いたかわいい絵本を借りてきたところ
「動物のかぶりものをかぶってパレードする」
などなんだか気が合いそうだ!と急に思いたって、マヤ暦占いの背景が分かりそうな本を買いました。
ジャガーの智恵―マヤ・カレンダー「神聖暦」で占う (シリーズ先住民の叡知)
ここでも「あーーーー!」と腑に落ちる体験がたくさんありました。
まず訳者による「はじめに」から、マヤの世界観では「死」や「夜」を肯定的にとらえると知って、早速許された気がしてありがたく、とても嬉しくなったのでした。
「生命の樹」は文化的民族的境界を持たない数少ないシンボルの一つである。シベリアのシャーマンが精霊の国を訪れるときに登る樹であり、バイキングの宇宙の中心に立つ樹でもある。智恵を探求していたオーディンは、この樹に生け贄のように吊るされた。それはまた、エデンの園の中心に立つ樹であり、古いバビロニア神話からヘブライ神話へと受け継がれたものである。キリストの十字架もまた、生命の樹のひとつである。中世の伝説によれば、キリストの十字架は、エデンの園に立つ生命の樹の子孫から切りとられたものだという。
世界の中心に立つ「生命の樹」は、ヴェーダ神話にあるメルー山のような「世界山」としても理解されている。古代メキシコの人々は、中心を意味する概念である樹と山をともにあがめていた。なにはともあれ、「生命の樹」は宇宙の中心を象徴しており、その軸を中心にすべてが回転しているのだ。
ドラクエの「世界樹」(「世界樹の葉」を使うと生き返る、「世界樹のしずく」を使うと全回復)や太陽の塔の「生命の樹」(塔の内部に生命の進化をあらわした樹が生えている、地下もあるらしい)を思い出しながら、わくわくする気持ちで読む。
中心に「世界樹」や「生命の樹」があり、東西南北四つの方向に放射する、それが十字架。都市計画もこの考えに基づいていて、「単なる都市ではなく、曼荼羅であり、宇宙の雛形だった」
……う、宇宙の雛形…!!
(「宇宙の雛形」とは三島由紀夫の『美しい星』に出てくるキイワード)
そしてこの生命の樹、宇宙の雛形は世界もそうであるように、人体の中にもある。
「世界樹」や「世界山」同様、中心の樹や山が人体にあるという概念も、文化的境界を越えた普遍的象徴である。天国の構造である大宇宙と、人体である小宇宙には精密な対応がある。宇宙に中心軸(山)があるとすれば、霊的存在としての人間にも要となる軸があるはずである。ヒンズー教の伝統によれば、脊椎がメルー山に相当する。ユダヤ教のカバラによれば「生命の樹」は、エデンの園だけではなく人体のうちにもあり、これも脊椎に関係している。
地球の持つ生命力が「世界樹」を駆け登り、神々の息吹がそれを伝って下りてくるように、脊椎を流れて、内なる人間に生命を与えるものがある。ヒンズー教はそれをクンダリーニと呼び、カバリストはそれをシェキナーとして認識している。古代マヤの人々はそれを「天の滴(しずく)」と呼んでいた。現代マヤのカレンダー・シャーマンはそれをコヨーパ「体の稲妻」と呼んでいる。(これは太陽の塔のおなかにも稲妻が描かれていることと合致!)古典マヤ期からの人体の深淵な性質に関わる教えは、きちんと残されていないが、アステカの伝承によれば、中央アメリカには人体を流れる霊的なエネルギーに関する高度な教えがあった。「世界樹」を上下して流れる生命力、そして脊椎を上下する生命力は、ナワトル語で「マリナリ」と呼ばれていた。これはマヤの「天の滴」に相当する。
アステカ族によれば、マリナリには、二つの流れがあった。一つは天国から下に流れおち、もう一つは黄泉の国から上昇する。二つの流れは一緒になって、DNAのように二重螺旋となっていた。マリナリの流れは、体内三つのセンターに集結していた。これらはヒンズー教の教義にあるチャクラ、文字通り体内の霊的エネルギーの車輪と明らかに類似している。(中略)
『ボルギアの書』として知られるアステカの古写本に残された図解は、神聖暦のデイサインを人体の各部に結びつけており、頭頂、へそ、根のチャクラを知っていたことを示唆している。こうして、世界樹のように、カレンダーはわたしたちの外側にも内側にもあるのである。それは時間を測るものであり、同時にわたしたちのエッセンスでもあるのだ。
カレンダーは外側にも内側にもある!!
エリさんの「からだの調整」を習い始めて一年半ほどが経ちました。
「からだの外側」の意識(手先とか目に見えるところ)ではなく「内部のつっぱり」の感覚が大事だといつもおっしゃるのですが、これはいつも言われないと反対の癖がついていて、すぐに外側のことばかりを気にしてしまうと感じます。問題は外側(社会)じゃない、内部(自分)なのに。内部のゴムをひっぱりすぎず、たるませすぎず、ちょうどいい緊張感を保つこと。
「立ち方」や「歩き方」がよく分からない(習ったことがない)、だから自信がない、だから下を向くし丸くなる…と思っていたのですが、そういうことをちゃんと教えてもらえるので楽しくて通っています。一年もたたないうちに足の親指の巻き爪がすっかり治りました。私にとっての寺であり病院です。
身体のしくみを学ぶことは、人形作りにも生かせるなぁと思っています。
(撮影:さくらまみ)
外側に創るということは、内側に創るということであり、内側を癒すということが、外側を癒すということ。であることが望ましいというか、そういうことを私は目指しているのだと思います。
私たちの新しい運動、それは運動自体が癒しであるような運動です。セラピーとしての運動、セラピカルな運動といってもいいでしょう。運動の中に埋没するのではなく、運動の中で開かれていく。運動に消耗するのではなく、運動の中で生き生きしていく。私と世界の癒し合いの運動こそがいま世界中で展開しつつある新しい流れなのです。
『覚醒のネットワーク』セラピーとしての運動
2015年にずぶの学校をはじめたとき、岡本太郎氏のことばを建学の精神としました。
「他人が笑おうが笑うまいが、自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。何でも平気でやるべきだ。」という岡本太郎氏の言葉を受けて、みんなずぶの素人であって、だからこそ何でもやれるのだ!という意気込みを建学の精神としています。
大好きな「太陽の塔」…
自分なりの「太陽の塔」を建てるつもりで作った「ずぶの学校」ですが、外に「太陽の塔」を建てるということは、内に「太陽の塔」(生命の樹)を建てるということだったのです。内に生命の樹を建てるということは、「経済的自立」ではなく「生命的自立」(上田さんのおことば)をするということなのだと気づきました。樹立…
様々な運動の現場でいま生まれている新しい流れ、それは「社会運動」と「精神世界」との出会いです。いままでは、現実の社会状況を変革する「社会運動」と自分の内面を見つめ、自分を変革していく「精神世界」は全く別物と考えられていました。その二つはむしろ対立するもののように考えられてきたものです。「社会運動」をする人は人の内面が変わったところで社会的な状況が変わらなければ、本当の社会的解放はもたらされないから「精神世界」のみの追求はむしろ社会的なものから目をそらす「まやかし」だと感じ、「精神世界」の人は社会的変革を行っても人間の内面が変わらなければ本当の解放はもたらされないから「社会運動」のみを行うのは「まやかし」だと感じてきました。しかし、よく考えてみれば、その二つは対立しているものではなく、一体のものであるということが分かるでしょう。
その二つが分けられると考えたこと自体がおかしなことだったのです。その二つを分けたことで、その二つの世界は袋小路となり「運動病」とか「セラピー中毒」という問題を抱えることになりました。しかしその二つの世界が再び結びつくことで私たちはいま開かれた地平に出ようとしています。(中略)
宗教やセラピーの中で自分の「殻」「悪魔」に気づいた人の中で社会的な変革へと向かう人が増加しているのは、現代社会での「自己実現」がそれだけでは決して完結しないからです。山に篭って悟りを開き、一生人里はなれて暮らすならばともかく、私たちがこの社会の中で生活するのならば、「自己実現」は「他己実現」そして「世界実現」へと自然につながっていきます。自分の殻に気づくとき、それは「殻」を生み出す社会システムに気づくときでもあるからです。そこで求められているのは永遠の往復運動ではなく、日常に「気づき」を生かしていくこと、生き生きした「いのち」の流れを阻害している構造を変革し、構造自体を生き生きしたものに変えていくことなのです。
私たちの、そして地球の「いのち」を覆い隠し、私たちの元気の素を奪っている構造は私たちの内部にも外部にもあり、その二つの構造が実はぴったりと重なり合い一体となっている、という気づきからもたらされるのは、私たちの内側へ、そして外側へと同時に働きかけていく運動です。いま「社会的運動」と「精神世界」の運動はひとつの流れになり、新たな変革を成し遂げようとしています。いままで「社会運動」に関わってきたひとがセラピーなどに積極的に参加して自分を見つめなおしてみる、そして今まで「精神世界」を追求していた人が社会的な変革に立ち上がる、「闘士が瞑想し、聖者が山から降りてくる」ような運動の流れはますます大きなものとなりつつあるのです。『覚醒のネットワーク』「社会運動」と「精神世界」の出会い
マヤの占いはとても実践的なものだそうです。私も、学術や芸術などにおいても、自分の悩み(問題)を起点として追求し「ことば」の理解と「からだ」の理解がゴムのちょうどいい緊張感を保っているのがいいと思います。『ジャガーの智恵』という本は半分は思想的ですが半分は実践的でもあってすばらしいと思いました。
瞑想のしかたや占いのしかた、祭壇の作り方も載っています。
昨日はテラコでたくさんお話しました(聞いてもらいました)。
それで今、11月2日の「死者の日」には「かわいい祭壇を作ってみよう(実践)」と思いたっています✨
「山の寺子屋」からの物語はそんなふうに続いています。