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旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

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始祖の地へお参り

今年の8月25日に和歌山県みなべ町で開催した「山の寺子屋

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 このイベントに関わった方々との不思議なつながりから、私は自分のご先祖様に出遇うことになりました。

 

2019年7月 ひろみさん(「山の寺子屋」主催のさくらまみさんの同級生)より『随筆みなべ』(平成30年に創刊60周年を迎えた)の存在を知り、この冊子を発行している「みなべ文芸の会」現会長がやかましの故祖父の弟(御年91歳)であると発覚

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随筆みなべ

この夏は、25年程前に亡くなった祖父の弟さん(大おじさん)と文通をすることができました。大おじさんは、元小学校の先生で住職をされていて文章を書くのも、文集作りもお好きなようで…気が合う予感。(私のおじいさんも中学校の国語の先生で住職だったそうです。)大おじさんのこれまでの文章を集めた文集「ともしび」を送ってくださいました。その後、私はお返事を書きました。

 

心のこもったおはがき『随筆みなべ』『ともしび』をお贈りくださり、ありがとうございました。ふりかえってみると15歳のころに、父と母、母と兄が絶縁し、仲の良かった兄が父とともに家を出て行って以来、「和歌山」「H(旧姓)」ということばは私(=母)にとって禁句になり、父を許せない恨みを心の奥底に秘めて生きてきました。しかしさらに思い返してみれば、小学生のころは勉強に忙しい母と兄を横目に、父と私のお気楽コンビはドライブに行ったり、公園に行ったりしていましたし、和歌山では(おじい)さんの暮らす小さなはなれで愛犬ルルと遊んだ懐かしい時間もありました。今となっては、幼いころの自分も、父と母も遠ざかり、ありがたかったこと、本当は嫌だったことをあきらめ、みとめることが少しずつできるようになってまいりました。今の自分は父にも母にもそっくりだと思うのです。手放しに期待しすぎても完璧な人間はいない。残念ながら父も母も私もたいしたことのない、ちっぽけな生き物です。ただ、今のように豊かな感性を持つ自分は父と母がいなければ存在しなかったことは確かで、二人を誇らしく思えるときも半分あります。この夏、天のおみちびきにより(大叔父)さんと出遇うことができ、その文章や長年の活動に感銘を受け、ずっと目を背けてきた「H(旧姓)」という名字を大事に思えるようになってきました。自分がお寺さんの孫で教職にたずさわる方が多い家系であるという事実も、今は自分の生き方(不器用で泥くさい)に、あきらめまじりの確証と祝福をくださっているように感じます。ありがとうございます。

母を生き父を生きたる我うらら(俳句を作っています)以下略…

 

すると後日「H家の家系図」が送られてきました。私のひいおじいさんを起点として派生した数々の名前、名前、名前…。それを私は旧ずぶ邸でともだちたちと眺めながら物思いにふけりました。ある友達は「先祖のことを思うと戦争がなくなる」という少数民族の教えを教えてくれました。そうかもしれない…と思いながら脈々と続く線を見て(しかもまだここに書かれていない線が無数にある)直属の直近の線にばかり目が行って悩まされることの小ささをひしひしと感じたのでした。目に見えるものしか見ていないからそうなるのかなと…。

 

「山の寺子屋」前日、約25年ぶりの和歌山入りを果たし、イベント当日もおじいさんや大叔父さんを知っている方々、元生徒さん、そして大叔父さんの代わりに足を運んでくれた息子さん(父のいとこ)とお会いしお話することができ、時空を超えたような気持ちで幸せな一日を過ごし…

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校長室にて

(「山の寺子屋」写真撮影:さくらまみ)

 

私は8月末しめきりの『随筆みなべ』に「みなべの声を聴いて」という文章を寄稿しました。

 

このたび、さくらさんのご友人ひろみさんからの数奇なご縁で、『随筆みなべ』の存在を知りました。送っていただき、開巻一番、「H(旧姓)」という懐かしい名前が目にとびこんできて、どういうことかと思いましたら、なんとみなべ文芸の会会長の(大叔父)さんは、私の故祖父の弟さんなのだそうでした。『随筆みなべ』……私のやりたいことはここにあり。地縁、血縁にかかわらない(地縁、血縁を含めた)「選択縁」(上野千鶴子さんがそうおっしゃっています)でゆるく連帯していきたいと考えています。これは「私」のやりたいことなのでしょうか、それとも地の底から響く「みなべ」の声なのでしょうか。ともあれ血の祝福をいただいた気持ちです。和歌山の血が「テラコ」や「ずぶの学校」、そして「山の寺子屋」として「社会の良心」となって、ひそかに息づいているのではないかとも感じます。
今さらながら「和歌山に原発は一基もない」という事実にはっとせずにはいられません。それは目先の経済的利益よりも後世にまで残る豊かな自然を大事にした先人たちの、長年の反対運動によるたまものなのだそうですね。尊敬できる先生(先に生まれたもの)の存在は、私に、後をゆく者に、生きる希望を与えてくれます。「いただいた希望はこどもにお返しするように。おとなはこどもを希望にするのではなく、おとながこどもの希望になれるよう生ききることを目指すのです。」和歌山に遺された海や山を見ると、そう教えられている気がします。

 

9月に入って、当日あまりお話することができなかったひろみさんが「ずぶの学校」にお越しくださいました。ひろみさんはピアノと歌をされていて、紙芝居のみちよさんと「ひろみっちょ」というユニットで、活躍されています。

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「山の寺子屋」にて「ひろみっちょスーパーゲリラライブ」のようす

子育てやお仕事でされている学童のおはなし、こどもをとりまく環境を見て経験され実践されてこられたおはなしは自分の経験とも共通する部分があるように感じて終始うなずいていました。

その日のことを、ひろみさんがブログに書いてくださりました👇👇

ameblo.jp

 

ある夜、私はまた『ともしび』を読んでいて25年前のおじいさんのお通夜、お葬式のときの大叔父さんのあいさつ文を発見しました。

 

昨夜のお通夜にも申しのべさせていただきましたが、兄は昨年八月以来、すでに手術不可能な重い病気におかされ、早くてあと一か月、長くてあと半年と言われていた生命の期限が神仏のご加護のおかげにより八か月二五四日も生かされたのでございますが、一昨四月十一日午後五時四十二分遂に命の火が燃えつきてしまったのでございます。

この間、家族の私たちは本人に重い病であることを感づかせないようにとの心くばりの毎日ではございましたが、今から思えば本人はすでに感づいていたのではないかと思われるようなことがいくつかあるのでございます。それだけにこの八か月は死を前提として一日一日を大切に、自分自身には忠実に、人さまには誠実に、お寺の護持興隆のためには最高最善の力を尽くしてよりよく生きた悔いのない充実の日々だったのではないかと思います。

あれを思いこれを思うとき故人は「大やん大やん(おじいさんのあだ名)」と縁ある多くの人々から親しまれ慕われ敬愛されそして中学時代から今日まで温かい友情をいただいたT先生の病院でその生涯をとじさせていただけたということは本当に幸福なことであったと思います。

あとに残った私たちには愛するものを失った大きな悲しみと共に惜別追慕の情を禁じ得ないものがあるのでございますが、今はただ故人の残してくれたおおらかで人をおもいやる豊かな心と、あのユーモアとウィットに富んだにこやかな笑顔を心の支えとしてこの伝統ある●●寺の護持興隆に励みたいと思っていますので、どうか故人同様よろしくお願いします。

それではただいまから、故人生前、幾たびか多くの方々をお見送りさせていただいた斎場へ今日は送られる身となって向かいます。

永の別れに際し、どこからか

”みなさん永い間ほんとうにお世話になりました

ありがとうございました

ありがとうございました”

兄の声なき声が私の耳底に聞こえてくるのでございます。

改めて兄の心を心として厚く御礼を申し上げごあいさつにかえさせていただきます。

 

私はこの25年前に目の前で聴いたはずのお話を時を超えてふたたび聴き、「声なき声」のしめくくり、「兄の心を心として」にはげしく共感…共鳴(?)して、そのとき涙ながらに、みなべ行きのバスの時間を調べました。案内役はひろみさんにお願いしようと勝手に決めて…

 

自分のことだと思うまで、そしてそのあと実際に行動にいたるまで、これほどかかるのでした。

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ついに…!!始祖の地へ…

「ようこそお越しくださいました」と握手して、大叔父さんはまたしても「家系図(改訂版)」をくださり、そして昨日親戚から届いた(?!)という、私のひいおばあちゃん方(大叔父さんの母方)の家系図の冊子(?はじめてみました)をくださり、そしてそして30歳の若い熱い青年教師時代からガリ版で刷って配っていたという寺報(お寺の通信)をくださり

「こういうなん作るの好きな家系やね…」とつぶやいていました。

 

誰はどこでどうなった、どうしているということをなんでも把握していて、「みなべの生き字引」という感じでした。奥深くまでたどっていったら、やっぱりひろみさんとも親戚でした…(!!!)。

 

こうしてルーツの、元の、根本までさかのぼることで、自分は他人であり、他人は自分であり、社会を学ぶことが自分(他人)を学ぶことであり、自分(他人)を学ぶことが社会を学ぶことだという、本来のシンプルな事実を思い出させてもらいました(ひいおばあちゃん方は井原西鶴と親戚とか…ちょっとそのへんの線はあいまいな感じだったが…)。他人事なんてないのだ。

 

「大やんが生きてたら喜ぶやろになぁ…」

「大やんの魂がひろみさんを通して連れて来てくれたと思うなぁ…」

と感激してくださり

 

「(24で結婚するまで)Hでがんばってくれたんやね」

「Hにはこれだけのひとがいるんやということひとりじゃないんやということを知っといてくださいね」

とお声かけくださり

私は来てよかったなぁ生まれてよかったなぁと思いながら

大叔父さんがかわいくてやさしくて泣きました。

生きるならこういう先生になりたい(そう思って先生になろうと思ったんだった)。

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寺報「ともしび」より

 

 

帰りのバスで聴こえてきた歌詞…

ありがとうありがとう私に流れたいろんな人たちの血

 

もう誰のせいにもしないって

YOSHII LOVINSON 「SWEET CANDY RAIN」