もやもやずぶちゃん

ずぶの学校のやかましみさきです。絵や文、俳句、ぬいぐるみの創作、人形劇、手作り作品のお店、表現の家を開いています。ワークショップ、オーダーメイド受付中。おたよりください。info@zubunogakkou.com

ずぶの学校のやかましみさきです。

絵や文、ぬいぐるみの創作、人形劇をしながら

手作り作品、落とし物のお店、表現の家を開いています。

ワークショップ、オーダーメイドも受付中!

おたより待ってます。

info@zubunogakkou.com

生活する家

21日はずぶ邸のオープン日でした。
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(最近は木曜15~19時、土曜12~18時で開けています。5月5日はお休み)


土曜は主にメンバーと
イベントに向けた創作会をゆるっとしています。
(お客さん歓迎)

この日は和綴じ本の和亀(わかめ)創作会で
和綴じの師匠、小梅さんと
和綴じ仲間のこにしさんと制作していました。
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和亀(わかめ)五號! 亀の足綴じ
そこへご近所さんが
亡くなったお母様のお着物グッズを
持ってきてくださいました。

(布の差し入れ、嬉しい)

ずぶ邸はほとんど貰い物の
寄付の品と手作り品でできています。
食器、家具、文房具などなど
誰のもの
という境界線が非常にあいまいな家
(所有→生かせない→共有という流れ)

実際、家自体も誰のものかわからない状態のまま(空き家問題の難点)
居座っています(一応管理人は祖母)


思い出話をお聞きしながら
布を愛でる。


手作りが好きなひとは意外と多いのだと感じます。
布や紙など、ごみと思われるようなものも
宝として丁重にもてなし
ぶくぶく膨らんでいくずぶ邸。
誰のものでもなく
我々はすべてはずぶ邸さんの一部に。
(屋根(傘)があるというのは恩恵だ!)

それらを
する
作る

という加工を経て外(ご近所)に出荷します。

そして
外からお金をもらう
(それもほぼ寄付ということになります)


そのお金で改修やその他電化製品や備品を購入して維持しています。
(大部分は祖母&私&メンバーのポトラッチによる。現在クーラー募金中)


布を食べて吐き出す生きもののような家。

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こにしさんの作品たち

お金、もの、仕事(したいこと)、思い
をぐるぐるまわして
みんなが幸せになれるような
循環型の家(理想郷)を模索中。

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本もめぐります

この家(活動)の維持が私のしたい
「生活」
ということかなと最近は思っています。


家庭や会社って本来はそういう仕組なのかなと思います。
ずぶ邸はちっちゃな次元ですが。


現代の家庭は核家族化が進み
特定の組織からだけお金をもらい家(マイホーム)をまわす
(家父長一人体制、二人体制が主? 一人も二人も少ないと思う)

家庭や会社など少数の組織だけに頼ることを少しずつ減らしていきたいと思い
バランスをとっています。サードプレイス、フォースプレイス…
依存先を増やすキャンペーン中。
兼業が増えているのもうなずけます。
その方が会社も気楽なんじゃないかと思う。


目標は10年で半半です。


所有も個のものになって
家は閉鎖的になりましたが
(防犯のことを考えると仕方ないのもわかる)
思いもお金もものすごく閉鎖的になっていると感じます。

ひととの交流も
意志を持たないとどんどん閉鎖的になる。

快適なベッドタウン育ちの私ですが
安部公房の「赤い繭」を読むとベットタウンの風景が浮かびます。

家….. 消えうせもせず、変形もせず、地面に立って動かない家々。その間のどれ一つとして定まった顔をもたぬ変わりつづける割れ目….道。雨の日には刷毛のようにけば立ち、雪の日には車のわだちの幅だけになり、風の日にはベルトのように流れる道。おれは歩きつづける。おれの家がない理由が吞み込めないので、首もつれない。

オープンしている家が一切ないまちというのは風穴がなくて息苦しい。

運よく半開きの窓からのぞいた親切そうな女の笑顔。希望の風が心臓の近くに吹き込み、それでおれの心臓は平たくひろがり旗になってひるがえる。おれも笑って紳士のように会釈した。
「ちょっとうかがいたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」
女の顔が急にこわばる。「あら、どなたでしょう?」

おれは説明しようとして、はたと行き詰まる。なんと説明すべきかわからなくなる。おれが誰であるのか、そんなことはこの際問題ではないのだということを、彼女にどうやって納得させたらいいだろう?おれは少しやけ気味になって、
「ともかく、こちらが私の家でないとお考えなら、それを証明していただきたいのです。」
「まあ…..。」と女の顔がおびえる。それがおれの癪にさわる。
「証拠がないなら、私の家だと考えてもいいわけですね。」
「でも、ここは私の家ですわ。」
「それがなんだっていうんです?あなたの家だからって、私の家でないとはかぎらない。そうでしょう。」

返事の代わりに、女の顔が壁に変わって、窓をふさいだ。ああ、これが女の笑顔というやつの正体である。誰かのものであるということが、おれのものではない理由だという、訳の分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である。
 だが何故……何故すべてが誰かのものであり、おれのものではないのだろうか? いや、おれのものではないまでも、せめて誰のものでもないものが一つくらいあってもいいではないか。

この壁に私はとても違和感があります。

「そしたら先生、知らん人来たら家にいれんの~?」
と生徒に言われて
「それは確かに怖いな」
と答える自分もいるのですが…

所有は所有でも
厳然たる壁にならないような

ゆるく所有するというのは難しいのでしょうか。
家族じゃなくとも、ゆるく共感し、共有し、共存するというのは?

外からの助けに支えられなければ、その家(ひと)は生きてはいけない。

個は全体の中にあるんだけど
個々が好き好んで主体的に関わる全体主義っていうのは?
(そういうのは民主主義っていうのかな)

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レンブラント広場の美術作品マーケット

アムステルダムの街並みも一歩間違えば全体主義だと感じた。
かわいいから幸せなんだけど。
(嫌いなひともいるのかな)