もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

ゆるゆる生きる

はぁ。あかんなぁ。私は何をしたいんやろ。でも今日はいいかと思ってみる。

 

今日は、テニスコートに行った。「一緒にテニスをしましょう」と誘われた。ボール恐怖症の私だのに、どういうわけか俄然腕が鳴る。飛んでくる球をさっとよけては相方をふりまわし、自分はほぼコートの隅に立っているだけだったが、「サーブは安定している」とほめられた。何気なく輪に入れてもらった……ような気がする。

 

今日は、山に登った。毛虫もぶらさがっていたし、いのししも出た。のろのろ登り道、背後から来る軍勢に抜かされ続けた。けれども、みんなは何度も立ち止まって待ってくれた。山頂でみんなとお弁当を食べながら、この恩義に報いんため下山もともにすると決意した。足を引きずりながらも、なんとかゴール! 帰り際、一同が集合して「ありがとうございました!」と言ってくれた。

 

今日は、放課後に生徒がやってきた。「国語、教えて!」という。勢い余って黒板をたたき、いつも授業で言っていることを大仰に繰り返す。「おお!」「そういうことか!」「なるほど!」「先生すごい!」と授業ではついぞ耳にしたことのない歓声があがる。私は救世主になった!(?)

 

若い皆さんの目に映る私は穏やかに許され、認められている(見留められている)ようでした。私はみなさんのことを見留められていたのでしょうか。今思い出してみています。

 

ぽつぽつ、お話しましたね。私の話ににこやかにうなずいてくれる子がいました。笑ってくれる子がいました。うまいこと突っ込んでくれる子がいました。私についての質問をしてくれる子がいました。ノートやプリントに感想や近況や悩みを書いてくれる子がいました。ぎっしり書いて交換日記をしてくれる子がいました。手紙をくれる子がいました。愉快な絵を描いてくれる子がいました。作文をはりきって書いてくれる子がいました。おすすめの音楽を、本を教えてくれる子がいました。廊下で必ず名前を呼んでくれる子がいました。自分の話をしてくれるのが嬉しかったな。勉強の話、友達の話、家族の話、恋愛の話、進路の話。過去の話、将来の話。食べ物の話、趣味の話、映画の話、本の話……

 

目の前のひとを固有のものとして見留めると、心の交流が生まれるのかもしれない。そのぶん、離れていくのがつらくなるけど。でも成長した姿を見送るのは晴れがましくもあります。卒業おめでとう。誰かと過ごすその時間はいずれ終わる。特に、若く、感受性の豊かな時間は、何よりも大切に。時間がなくても、心はなくしたくない。こどもをがっかりさせるような大人にはなりたくない。私はみなさんとまったりお話している時間がとても好きでした。前へ前へと進んでいかされるだけの、追い立てられるだけの空疎な時間から逃れて。

 

そのひとの言葉を、心を傾聴することがそのひとの存在を許すこと。許し、許されているという関係。それだけでいいよね。大人になっても、悠長に、ゆるゆる(許る・聴る)生きてみる時間があっていい。

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(東高校50回生卒業生に贈ることば 2015.2)