もやもやずぶちゃん

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ずぶの学校新聞 no.40

~読書感想文でも書いてみる 再読中島敦①『山月記』~



七月は一人の高校生から話を聴くことがあり、教師や親など周囲の大人たちの心無い言動に驚きと憤りの連続だった。


長く高二現代文の定番教材になっている中島敦の『山月記』は、エリートコースを歩んできた男が自らの「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とによって自分から孤立し挫折し、人間から虎になってしまう話だが、まさにこの「虎」になることが「大人」になるということなのかもしれないと何度も思わされた。大人たちの言動はどれも、こどもに「はやく虎になるように」「虎になれば楽になるから」と勧めているようにしか思えなかった。虎になると無意識なのでためらうこともなく、うさぎを殺して食べる。そこで人間に戻り、血を見てその事実に気が付き、ショックを受ける。男はだんだん人間であるよりも虎である時間の方が長くなり、完全に虎になる前に友にすべてを話し、最後に哀しく月に向かって吠え、姿を消す。


「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が肥え太り、ゆるぎない壁(障害)となって何があっても何をしても微動だにしない「虎」として完成する(虎に申し訳ないが)。この作品が長らく教科書に載っているということは、完成した「虎」から未完成の「人間」に何を「教えよ」ということの暗示なのだろうか。


私は、作者が未完成の「人間」として悩み続けることをこそ、優しく励ましてくれる物語として、若者たちへの応援歌として読み、高校生の時に心を打たれたし、今でもこうしてすぐに思い返せるほど自分の血肉となっている。「虎」として人を傷つけている自覚を持ちながら「人間」として悩み苦しみ続けることが生きるということなのかもねと友と話し合う空間、我が身を反省する時間を持つことが大切だと思ってきた。


その高校生は生粋の「人間」なのだ。「虎」として生きることへの疑問をずっと持ち続けている。虎になるぐらいなら「死」を選ぶと心に決めている。その決心を、自我を失った虎たちがよってたかって叩き潰して否定し、自分たちと同じように虎になって心を殺して生き延びることを強要する。それが「教育」なのだろうか。授業で扱う内容と学校自体の「教育」内容は矛盾している。授業で教えることは結局のところ建前で、実際はそれとは真逆のことをごく自然に洗脳し続けているように見える。


夏休み明けに自殺する「人間」が多いことは納得の事実だ。「虎」になる(戻る)ことへの絶望を感じるからだ。それは多くの大人がなぜか無意識に「完全な虎であらねばならない」と思い込んでいることが原因だということ。つまり「教育」が問題なのではないかと思う。


虎である時間が長くなればなるほど、完全な虎に近づいてしまう。私は、ふんばって「人間」であろうとしているひとを応援したい。そのひとが私にとっての希望の光だからだ。考える「人間」を生かすことが私のしたいこと(仕事)なのだ。



<8月の句会でみんなで作った句>

月曜日 あることないこと 走馬灯

休暇果つ とらよりのとら ナウ


(「走馬灯」は夏の季語、「休暇果つ」は秋の季語。高校生は「まあまああり」のことを「あり寄りのあり」と言うので真似してみました)

 

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