もやもやずぶちゃん

ずぶの学校のやかましみさきです。絵や文、俳句、ぬいぐるみの創作、人形劇、手作り作品のお店をしています。ワークショップ、オーダーメイド受付中。おたよりください。info@zubunogakkou.com

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絵や文、ぬいぐるみの創作、人形劇、手作り作品のお店、

表現の家(ライブハウス)をしています。

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ずぶの学校新聞 no.22

~ずぶのしろうとであること2 文学フリマ編~

 

 

授業中「恋と愛の違いって何?」

と生徒に聞かれ、とっさに

「アマチュアとプロみたいなもんちゃう?」

と口走ったのは、ずっと「ずぶ」について考えていたからだった。お得意のこじつけでいえば、確かにそうといえなくはない。

 

一時でも燃え上がる恋の気持ち(熱意)はアマチュアの心境によく似ている気がする。好きでたまらない、未熟で不器用で人間くさい、損をしたってする一回きりの賭け。

 

プロは、もっと確実だ。継続によって黙々と技術を磨き、完成度の高い作品(結果)を残す。生き残るため、継続するためには、損はできないし、相手の出方で一喜一憂してばかりもいられない、孤独でゆるぎない意志。それは永遠に目標かもしれない。

 

一月に、和亀を携えて文学フリマ京都」に出店した。会場内の熱気はすさまじかった。文学を愛する思いは、出店者もお客さんも同じ。お客さんの積極性は、学ぶ気満々の生徒のようで、こちらにもどんどんエネルギーがみなぎってくる。

 

みなブラザー!

 

 

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ずぶぬれの配布と和亀(わかめ)の販売をしました

 

いつにないことだと思った。

 

与えるもの、与えられるものの構図がはっきりしているショッピングモールや百貨店とは違う。快適で便利でわかりやすく用意された環境で、与えられるものは受け身で流されるままに買ってしまう。

 

それが当たり前になってくると、与えられるものは何の苦労もなしに、その環境が整っていないと文句をいうようになるのである。お金を支払う側は相手にプロ(完璧)であることを強い、お金を受け取る側はプロであることを自分に強いるのである。しんどい。

 

文学フリマでは、与えるものも与えられるものも、どちらも媚びないし、嘘をつかないし、真剣だ。自分の好きなものを売り、自分の好きなものを買う。

 

あるいは熱意を売り、熱意を買うともいえる。お金を支払う側も相手にプロであることを強いないし、お金を受け取る側もプロであることを自分に強いない。自由で寛容な社会。

 

ここでは双方がずぶでありながら、双方が積極的に社会に参加している。プロから与えられるのを待っているずぶはいない。待っていても何も見つからない。変わらない。ひとりひとりが考え、選択し行動している。

 

あふれる「ずぶ力」をひしひしと感じる。民主主義社会だ。

 

教室もそうあってほしいのだが。今はやりの(?)教員・授業アンケートが許せない。いや、高校生のときにやらされたときから、私は憤っていた。

 

生徒が教員をひとりずつ評価するのである。しかも質問がむなしい。

「声は大きく、聴きとりやすいか」

「説明はわかりやすいか」

誰が考えたんだろう。声が大きく、説明がわかりやすいのがいい授業だという安易な考えを生徒に植え付けてしまうじゃないか。教員なら完璧である「べきだ」、教員なら生徒の役に立つ「べきだ」。

 

いい授業かどうか、何を受け取るかは生徒の自発性によるし、個人的なことで、ひとりひとり違う。そして、それはすぐにわかるものでもない、十年、二十年、三十年、それ以上……かかるかもしれない。

 

そのようなことをさせる(生徒はやらされている)ことによって、生徒はますますお客さん化し、教員はますます店員化する。教員同士もお互いを数字でジャッジしあい、競争させられるように仕向けられる。

 

先生は好きなことを話し、生徒は好きなことを聴き取ればいい。何か困ったことやおかしいと思うことがあるなら、先生に直接聞けばいいし、先生は直接生徒に応えればいい。そういうリスクや苦労をともなう行動を自分で取れないなら、文句は言えないだろう。

 

そもそもアンケートをしないと生徒のことがわからないなんて、数字にしないとわからないなんてダサすぎる。(しかも生徒だって適当に書いている数字なのに、それを信じるのか?)それが教員のプロの世界なんだろうか。

 

 

 

ぶん・あかまつみさき

(五月に文学フリマ東京に出ます!東京進出!遊びに行きたいだけ!)