もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

性とお金、死について①

 

二十代までの私がタブー視してきたのは「性」と「お金」でした。

 

タブー視というか「悪」「汚いもの」として

偽善的に(自分と切り離して)嫌悪してきたものです。

 

それをできるだけ遠ざけて

自分が神聖な存在であるかのように思いこんでいたかも。幼い。

 

でも「ずぶの学校」をはじめて

自分はその恩恵を受けて今ここにあるのだ

と身に沁みて分かるようになってきて考えが変わってきました。

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旧ずぶの学校にて 漢字遊びの跡

学校も生徒(の親)からお金をもらって

あるいは税金で

冷暖房のきく教室が存在し

黒板がありチョークがあり机があって

広報や営業の結果、生徒がそこに座っていて

私は先生と呼ばれていた。

身分とお金をもらっていたということ。

それで好きな本や服を買っていたということ。

 

私が遠ざけても

他の誰かがやっていてくれていたことだった。

 

それなしに生きていけないものなんだ!

それが人間が生きるということなんだ!

 

俺たちはSEXでできた

吉井和哉「Pain」

 

そして人間は、自然の一部、動物の一種であるという事実。

 

「俺たちは黄色いサルだ」という

THE YELLOW MONKEYにのめりこむうちに

民俗学」への興味が芽生えました。

 

存在すること自体が「性」からはじまったこと。

 

赤坂憲雄さんの「性食考」(岩波書店・P159~)を読んで学んだのですが

中村桂子さんの『生命誌とは何か』によると

「性」と「死」は同時に登場したものである

 ということらしいのです。

 

細胞分裂の単細胞時代は

「生」から「生」への連続しかなく

「性」ができてから

「個(体)」ができ

「死」ができたそうです。

 

個体ができて

食うか食われるかの「戦争」や「差別」や「搾取」や

「恋愛」や「嫉妬」や「SEX」や…

もろもろの喜怒哀楽のドラマが生まれたんでしょうが

「多様性」がさまざまな危機に対して、種が生き残る可能性を広げている。

 

少年漫画の「キングダム」を読むと

そういうことをひしひしと感じます。

 

(性に関しての幼い潔癖感はかつての自分を思い出しますが

少年漫画だからいいのか?

影響力が強い分、教育上良くない気がしてそのへんはちょっと不満ではある)

 

漫画は借りていたので、うろおぼえで申し訳ないのですが

 

好きな言葉は、蒙恬(もうてん)の

「誰かは行くべきだ」

という言葉です。

 

敵の明らかに罠と思われるような行動に対して

たとえ罠だとしても誰かは行く(後を追う)べきだ

というシーンでした。(ざっくり)

 

この言葉はよく思い出します。

 

たとえば「デモ」

私は「デモ」という表現の仕方はしないけれども

(人混みがきらい)

誰かはやっている方がいいと思います。

というか代りに誰かにやってもらっている。

 

子どもを産み育てることも、そう。

 

みんなが同じことをしないでいい。

 

それは誰かがやってくれるから

私はこっちを攻める(守る)という考え。

適材適所で。得意なことで。無理なく、したいことで。できることで。

 

ひとがしないけど

自分はした方がいいと思うことを勝手にやって

勝手に全体のバランスをとっていこうという考え。

それがそのひとの「仕事(すること)」なんじゃないかって思うとる。

きっと誰かは見てくれてます。

 

以前の職場でもちょっと(?)異色な私を励ましてくれた先生がいました。

 

「いろんな先生がいるからいろんな生徒に対応できる」

 

と言って。

 

誰も言わないことを言うのも

作らないものを作るのも

ひとが払わないことに自分を払うことは

本当にちょっぴりで一見無意味そうだが

全体にとって、誰かにとって、きっといいことだと思う。

と信じる。

 

「仕事は気づいたひとがしたらいい(せんでもいい)」

 

全員が美しく(?)書いた「希望」という字が

壁一面に並ぶ教室は、絶望的な気持ちになります。

 

とにかくみんな、したい放題する方が

おもしろいし、希望がある。

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