もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

KAMELO(ラクダ)完成

ボンソワ!
今日は、お昼過ぎからテラコにいます。

 

普段は学校にいます。
勉強するのも好きなので学校のお仕事は好きなんです。

 

ただ「正しいこと」ばかりを求められるのはつらいです。
現代文の読解は、専門家の読みを踏襲した私の読みですが、
新鮮な時代の生徒の読み(ひらめき)も知りたい、と思う。

 

しかし学校では、自由な読みは禁止のテストがあり、
自由なはずの作文でさえ本文の内容と少しそれると
「違う」「分かってない」の烙印を押されることもしばしば。

 

つまらんーー!
となるのもやむをえなかろう。

 

私は、でたらめでもいいと思うんだ。
純粋で、その人らしくて、おもしろければ。

 

ポンキッキでやっていた「爆チュー問題」のコントと
でたらめな歌が大好きでした。
その太田ピカリさんのおことば。

 

太田 少し前に僕は、テリー・ギリアムという映画監督と対談をしました。ギリアムの『フィッシャー・キング』という作品が好きで、あるシーンについて、「あれはこういう意味ですよね」と彼に聞いた。すると「それは違うよ。おまえの解釈は間違ってるよ」と言われたんです。そこで僕は彼にこう言った。「いや、あなたの方こそ間違ってる。僕が解釈したことに、あなたがとやかく言う筋合いはないよ」と(笑)。

 

中沢 やりますね(笑)。

 

太田 ギリアムにとっては、僕の解釈は誤解かもしれない。でも、その誤解こそが僕の個性なんだし、もっと言えば誤解にこそ意味があると思うんです。芸術作品を見たときに、感動するのは、その誤解というギャップがあるからでしょう。作者の意図とは違うところで感動が生まれることはいくらでもあるし、むしろその幅が作品の力であると思う。
 僕の中に誤解をなくしたいという一方で、誤解を大事に思う気持ちもあるからすごく問題が難しくなってきます。

 

中沢 みんな同じように感動したら、むしろきもち悪いからね。

 

太田光 中沢新一憲法九条を世界遺産に」2006)

 

犬と人間の関係は、わずかなコミュニケーションとほとんど大部分のディスコミュニケーションでできている。お互い誤解だらけ。生物の心の構造はみんな違うわけだから、同じ現場にいても、違う世界を見ている。そう考えると、この宇宙は千差万別で、どれが正しいということはない。

 

とかいつまんで中沢さんのあとに続くお言葉。

 

 

犬と人間だけでなく、人間と人間、もそうだと思う。
生物と生物。

言葉が通じると思っていたら大間違い。

 

「ほとんど大部分のディスコミュニケーション

をすごく感じる。

 

それにいらだつこともあるけど、
それがおもしろいと感じることも確かにあるのだ。

 

どんなに話が通じ合っているようでも
違いはもちろんたくさんある。
逆にほとんど話がかみ合っていなくても
傍から見るとそっくりということがある。

 

飼い犬と人間はそういう関係かもしれない。
親子、兄弟姉妹、友人、夫婦、師弟…名もなき関係の数々…
どんな関係も大同小異?
この世で一緒にいるという時点でなんらかの縁がある。
生き物としての共鳴が。

 

簡単に誰かとコミュニケーションできるなんて、
勘違いだって気が付いていなきゃと思う。

 

コミュニケーションは1%の希望。歩み寄りの共鳴。
99%の「ディスコミュニケーション」を前提にした
寛容さを忘れないようにしたい。

 

さて、テラコで作った雑誌「KAMELO(ラクダ)」の表紙を
しかとご覧ください。

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「個人事情主」……

 

これも奇跡の産物。流行語の予感。
でも、皆個人事情主で消耗してるじゃないか。逆説的。
誰が間違いと言い切れるでしょうか?

 

これが許されるテラコは、
自由であたたかい場所ですね。