もやもやずぶちゃん

ずぶの学校のやかましみさきです。絵や文、俳句、ぬいぐるみの創作、人形劇、手作り作品のお店をしています。ワークショップ、オーダーメイド受付中。おたよりください。info@zubunogakkou.com

ずぶの学校のやかましみさきです。

絵や文、ぬいぐるみの創作、人形劇、手作り作品のお店、

表現の家(ライブハウス)をしています。

ワークショップ、オーダーメイドも受付中!

おたより待ってます。

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ずぶの学校新聞 no.47

夏至のおまつり 終わりました~

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夏至のおまつりちらし(こにしともよさん作)

6月1日~23日まで、旧ずぶ邸で行われていたイベント「夏至のおまつり」が終了しました。たくさんのご協力、ご愛顧、ご支援ありがとうございました。

 

◉注文の多い小劇場2(ダンス公演)

ずぶとじぶプレゼンツ「注文の多い小劇場2」
2019年6月1日、2日


「注文の多い小劇場」とは、パフォーマンスユニット「ずぶとじぶ」が、古民家「旧ずぶ邸」をまちの小劇場と見立て、ちからわざで活用・再生しようと試行錯誤する企画。表現者ができるだけ創作活動に没頭できる環境、またできるだけ表現者に利益が還元される仕組みを模索するため、来場者、出演者への注文が多くなりますが、ひとりひとりの「想像力」と「思いやり」によって成り立つ、あたたかい架空の劇場です。

 

2018年9月にダンサーの今村達紀さん、木村玲奈さんをお迎えした第一回公演がありました。

zubunogakkou.hatenablog.com

第二弾となる今回はダンサーの内田結花さん、斉藤綾子さんをお招きし、古民家旧ずぶ邸を生かしていただきました。

 

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★公演前にラジオ収録しました★

【ラジオ】ずぶとじぶと綾子さん

https://spoon.today/cast_312852

 【ラジオ】ずぶとじぶと結花さん

https://spoon.today/cast_325033

 

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NAKAYOKU TANOSHII OMOIYARI(ずぶとじぶのモットー?)


 

◉人形劇「ホテル雨もり」

2019年6月1日、2日
作・朗読:こにし ともよ(原作『和亀ニ號』所収)
人形:やかまし みさき、こにし ともよ 
演奏(コントラバス):坪井 慧太 

 ~あらすじ~

カエルのナナさんが暮らす草はらのしげみはいい住まい。けれどナナさんひとりには広すぎてときどき寂しくなってしまいます。そこでともだちのかたつむりの助言をえて「かんばん」を出すことにしました。 『ホテル 雨もり 雨が好きなかた かんげい』 さてさて、どんなお客さんがやってくるのでしょうか?

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 原作を読んでから3年越しの夢かない感無量。
人形を作ることと実際に動かすことの間にはだいぶ距離があり、それを埋める試みは一生がかりの仕事かなぁと思います。
ご近所さんとお子さんたちも観に来てくださいました。劇場から客席を見るのも劇場のだいご味だなと思います。
こどもの声が聞こえると嬉しくて、逆にいいものを見せてもらったなという気持ちです。(授業のときもそうでした。)
おとなもこどものような表情を見せてくれて楽しいひとときでした。
作者の声、ウッドベースの響きも心地よく、旧ずぶ邸にもぴったりでした。

おわったあとは…
こどもらと共食いをする人形劇(ずぶ俳句)

 

◉Q-enta(クエンタ)さんの絵の個展「ゆるゆるアニマ―る展」&ライブペイント
1日~23日まで期間中ずっとゆる~い動物たちが土間でひそかに見守ってくれていました。迫力満点かつゆる~いライブペイントは最終日にありました。

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ギャラリー土間にて

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ごろごろ観覧スタイル

 

◉架空読書会

 卒業生のゆきち主催の架空読書会とは、カードをひいて「架空の(存在しない)本」のタイトルを作ります。その本を「みんなが読んできた」という設定で、あらすじや感想をのびのび語り合うという「読書会ごっこ」です。
前の人が話したことを絶対に否定しないで、楽しくうそにうそをぬりかさね、みんなでうそを「ほんと」にしていくあそび!

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part1〜4をラジオ収録してみました。このあと7時以降も5,6,7…と続いて夜は更けていきました。
架空とはいえ、みなさんのマイブームや好きなもの、ことば、普段摂取している文化、世界観が出てくるのでおもしろ〜い!


👾架空読書会 part1
「沸騰したプレミアムおねえちゃんの」

https://spoon.today/cast_348961

主催のゆきちさんイチオシの本「沸騰したプレミアムおねえちゃんの」! 姉妹のおはなしなんだけど…あとがきで…もう一人いたってわかる?! 白玉といううさぎも登場?! 発想が沸騰した、アドベンチャーした回になりました〜

 

👾架空読書会 part2
「えっ?!の城を探せ!」

https://spoon.today/cast_348992

ゲストのペンシルさんイチオシの本「えっ?!の城を探せ!」おはなの城、すいかの城、Tシャツのしわの城…??シルクハット🎩の……ぎんぎつね??いやみなネキチの口癖「世の中金だマニ」??ポテサラを食べながら、ドラエモンの映画みたいなおはなしをしました👻


👾架空読書会 part3
「虫食いを添えて赤ちゃん」

https://spoon.today/cast_349025

じぶこと中西さんイチオシの「虫食いを添えて赤ちゃん」はスティーブンキングもおすすめの人間の真理に迫ったホラー小説。自分の中の暴力性が暴かれる幻想的文学的文章。虫食いの装丁の本。うさんくさいスナイパー舘ひろしとナメクジ…?一週間だけ八百屋で売ってた…??


👾架空読書会 part4
「魅惑のハニートラップ偽善者」

https://spoon.today/cast_349058

ゆきちゃんのイチオシ「魅惑のハニートラップ偽善者」はミステリー仕立てだったのでみんなで推理しながらおはなししました。主人公は一人じゃない?一人称がオイラ、おいどん、それがし?多重人格?「偽善者」というアイドルグループ?おばあちゃんとキャラメル…

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まことしやかな表情で行われる架空読書会


そのほか、かめな句会、ゆるのびストレッチ、未来の民芸品「つむじ」づくり、和綴じ本「和亀(わかめ)」、巻物「かめな句集」の発行、縄文茶会などなど…

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火焔土器でお茶(縄文茶会にて)

と、これまで旧ずぶ邸で行われてきたイベントや新しい試みを大集結しました。

 

約一か月にわたる、ゆるくてほそぼそとしていて、おとなしそうで地味にやかましいイベント、旧ずぶ邸らしい低体温のおまつりだったなぁと思います。

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一年分の俳句を集めたなが~い巻物(右)

今まででいちばんたくさんのひとに関わってもらえたのではないかな、じわじわと来場・参加してくださる方が増えていっているのがとてもうれしいです。

 

これまでしかくい建物の中で季節感のない生活を送っていた現代っ子のわたしですが、季語のある俳句の会をはじめて、これだけ「げし」「げし」と唱えて祝うとようやく夏の到来もからだで実感できている気がします。

 

年中行事「和綴じ」もはじまって、みんなで輪になって話しながら、なにかを作る時間が生活の一部になっていることがとても健康的な気がしています。

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和亀六號、発行しました!

サイクル、循環、まわる…まわす…!ということを考えながら、日々暮らしていきたいです。夏休みは(も?)ぼちぼち営業で亀のようにあゆんでまいりたいと思います。

 

★お越しになりたい!と思ってくださった方は…

7月8月、毎週土曜日15時~19時に。

またはご連絡ください。

info@zubunogakkou.com(やかまし)まで。

ことばの身体性を求めて

いつのまにか6月になり、人形劇が終わるやいなや梅雨入りし

 

かましは即興楽団UDje( )(うじゃ)のフリーペーパー「うじゃーなる」の編集に関わらせてもらっていました。ついに祝発行っ♪♪

 

そんななか

2016年の再結成から毎年恒例になってきたTHE YELLOW MONKEYのライブ…に行ってきました。

 

ライブ…授業も場づくりも仕事もライブだと思っているやかましは思考が

イエモン」と「うじゃ」と「ずぶ」を行ったり来たりしてややこしいです。

もやもやと右往左往しています。

が、すべては同じことと思うのです。

 

生(なま)生音(なまおと)生言(なまこと)

なんと言っても生の音が響く…

そして生の言葉(生言といってみたい)が私の心を打つのだった。

楽器と声の振動。

MC(おはなし)が好き、なんだけど一番好きなのは

声(音)とことばのミックスと、その中間地点。

 

今回のうじゃーなるの座談会では「日本語の難しさ」が議題に上がっていました。

 

ことばを音楽として使っていくときに「アイシテル」は恥ずかしい、「レイゾウコ」はたのしい、のように、ことばによって、かっこよさに違いがある気がするという意見がありました。

 

では、どういうことばだったらいいのか。

 

ナカガワ すごい実感をもって楽しくしてたら、私は別に「愛」だろうが「うんこ」だろうが、それは愛するよ。

 

かましは、この座談会とうじゃーなるの編集で「ことばの中身は意味じゃなくて実感なんだ!」とひしひしと再確認しました。

 

ことばの中身は意味じゃなくて本人の実感。

場や関係性がある中でそのことばでないといけないっていう本人にとっての必然性があるかどうか。

誰がいつ言うのかがそのつど新しい意味になる。

だから本人の意志がはっきりしないことばは抜け殻で無意味で響かない。

 

というマイ結論を得ました。

 

そういえば、「愛」とか「絶望」とかそういったことばが十代のころは全然好きじゃなかったことをライブに行って思い出しました。うさんくさいと思っていた。

「誠実」とか。宗教も怪しいと思っていた。即物的なことばが安心信頼の呪文だった。

だからそのころはそういうことばを歌わないスピッツ(マサムネさん)が好きだったのだった。英語に逃げず(安易に英語を話すことは逃げや迎合と考えていた)、日本語のださくてかわいいところを生かしていて好きだった。

(今も好きだよ)

「愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ」(スピッツ「チェリー」)が「アイシテル」を恥ずかしいと思う多くの日本人の正直な気持ちのように思います。

(知らんけど、のような照れ隠しがいるってことかー)

 

でも二十代になって「愛」や「絶望」に実感がともなうようになってきてから、イエモンの(吉井さんの)歌詞が沁みてくるようになったんだった。

(今は「絶望」や「希望」は普通に使いたくなるワードとなった。「愛」はまだ少なめか…でも日本語を愛しているわたし。今ならきっと他の言語も愛せる!)

 

実感があり、説得力があれば、ちゃんと本人から出たことばであれば、なんでもいい!!!!

空気を読んだり、ひとのまねをしたり、自分不在の無責任な発言、そういうのじゃなければいい。

 

それが、ずぶの学校でたまに開催する句会「かめな句会」のモットーでもあり、そういう俳句(?)が作れること、ことばをつむいでいけることがとてもうれしいです。

夏至に句集を発行します!)

 

自分発のやじるしでゆくマイウェイ(ずぶ俳句)

 

吉井さんのすごいなと思うところは(いっぱいあるけど)、歌を歌っているときに、ことばとからだが一致していることです。昔の歌でも、毎回心からそのことばを歌っているのだと感じて驚きます。

 

「触れられなければさみしいもんだよね~」のところでファンに触りにいったり…ところどころ歌詞を即興で変えたりできたり、よどみないのがすごい…前もって考えているのか、そのとき思いつくのか、訊いてみたい。

 

貫くと一本通ってはやくなるんだろうな。

(これは俳句かもしれない…)

 

ハチャメチャやってても頭はいたって冷静なんだなと思うとかっこいいなと思います。

イエモンのライブはあの人数の多さでありながら、けっこう参加型だと思う。スピッツはコンサートに近い。それもよい。)

 

うじゃにはパフォーマンスの前後に、ひとつ宣言する「木遣り(きやり)」という節のついたことばがある。

ナカガワ ステージの中で、まず私ひとりで「音~出し〜声~出し〜からだをあわせて〜これ〜すなわち〜愛を語ること〜平和を願うみなさまと~ともに~うじゃってまいりましょう〜」っていうようなことを節をつけて言って、最終的には観客もまじえて「あー」だの「おー」だのとひとりで言ってもらうっていう「うじゃ木遣り」をするんだけど、ほんとはあんまりそういう「ことば」を言いたくないんだよって。そしたら金子さん(障害福祉事業所の職員さん)はあれがあるから最後締まるんだよって言うんだけど。わしゃーってやって終わりにするよりかは、こういう思いがあるからうじゃしてるんだよっていう意味をこめて、最後に宣言…じゃないけど、お知らせするっていうコーナーがある方が締まるのは分かるんだけど。私的には…不本意なのよ。ださいのよね。「木遣り唄」は確かに少し北島三郎というか…演歌に似てるね。民謡に近い。

 

実はわたしはエリさんの「うじゃ木遣り」で泣いた経験があります。声や内容にも感動したのだと思いますが、そこまでの流れ(うじゃ)があっての歌というところでことばに多大なる説得力があったのではないかと思われます。

(その旨をお伝えしたら、「木遣りがんばろう!と思えた」と喜んでもらえました。リスポンスって大事だなーだなーもらったら返していかなきゃなー)

 

型でない自分のことばで歌を歌うということを目指したいです。

 

バンドメンバーの関係性

イエローモンキー楽しいんですよ、楽しそうでしょ、みなさんも楽しいですか?!

いろんなことがあってこれからもいいことばかりじゃないだろうけど、 おれにはイエローモンキーがあるからいいやとトイレで思った。トイレでってのがなんか残念だけど…みなさんもイエローモンキーがあるからいいやと…まあそこまでは思えないかもしれないけど…

みなさんの「かくれB級グルメ」でありたいです!

とMCで吉井さんが言っていました(順番はめちゃくちゃ、勝手につなぎました、うろ覚え)。

本当に楽しそうで、ソロの時が嘘みたいです。

(ちなみにソロも好き)

お客さんに向けてやるより前に、バンドメンバーとの関係が最優先だと思う。

誰にするかより、誰とするかが自分にとってまず重要なんだと思う。それがよいパフォーマンスにつながるのは何の仕事でもおなじだー。

したいひとと仕事がしたい。というか時間を過ごしたい。

と思っていたところで、エリさんの

だって私はお客さんとの関係よりもまずステージに立ってるひととの関係、顔の見える範囲の関係を築きたいからうじゃをやってるんだもんね。関係性がないと場を作れないわけで、誰とやっているのかを大切にしたいんだよね。

 との発言に感動しました。

お客様いのちになりすぎるのはどうなんだろうと思う。守りに入りすぎてしまうと何事も廃れる。

もちろんファンがあっての自分たちなのですが、新しいものを作るにはメンバーとの良好な人間関係がないと生まれないのです。冒険できないのです。

 

12年のそれぞれのソロ活動が今の楽しさを裏付けている。説得力があります。

イエモンは結成30周年!!!

うじゃは10年!

ずぶは4年…まだまだひよっこじゃ…

 

ことばの身体性について👇

zubunogakkou.hatenablog.com

 

人形劇したい! やろ~!

とすぐにできたことに感謝。貫いてきている。思い立ったが吉日。

人形劇はやかましの言語になりうる!と実感できました。

(っていうか、こっちがほんとのわたしのことばでは?!)

youtu.be

ずぶちゃん英語

ご近所のたむたむさんが、フランス人のおともだちHervé さんをずぶ邸に連れてきてくれました。

 

フランス語の絵本を翻訳(英語に)してもらったり

Hervé さんが撮影された動画をみたり

ピザを食べたりお話したり

いつになく日本語でないことばがとびかう空間がそこにありました。

 

私は英語がわからないのですが

(実は高校の時とても嫌いだった。話の内容がつまらなすぎるわりにおぼえることが多すぎた。外国語を話すことに対する苦手意識はコンプレックス(障害)のひとつ。それもあってずっと外国旅行が遠のいていた)

 

一生懸命リスニングしてなんとなくこうじゃないかというような

想像力で補ってなんとか話についていくも…

 

「ここはどういう場所なのか?」

「ずぶぬれはどういう冊子なのか?」

 

的な話を振られると答えるのに窮する。

自分の中にワードとセンテンスがないこと

まったくくちが慣れていないこと(人生初)によることばの出てこなさ。

 

私のことを私に聞かれているので私しか答えられないはずのことだ。

英語を話せるまわりの方々もその機会を無理に奪わないようにと

見守ってくれているのを感じるが答えられない。

せっかく興味を持ってくれているのに応えられないのはつらい。

 

ことばにできないというのは弱者だなぁとひしひしと感じた。

孤独で鬱になりそうだ。

(そうでなくても孤独で鬱にはなりそうやけど)

 

Hervé さんもともだちから私のことを「プレジデント(校長)」とか「エディター(編集者)」という断片的な情報はきいたが、私が実際何をしたくて何をしているひとなのかよくわからないといった様子だった。目の前にいるのに…

私自身の声を待ってくれていたと思う。

 

私は長時間だまってねばって

皆さんのお話を聞いてその場で吸収吸収(お得意の)

してすぐまねする(お得意の)

ことで、ほとんどのともだちが帰ってしまった夜更けには

すこしチャレンジ態勢(と本当に私が話すしかない状況)が整い

 

ぬいぐるみを見せて

「アイ メイド …」

と言ってみたり

 

写真を見せて

「アイ メイド ディス ウィズ チルドレン」

と言ってみたり

 

二階の人形劇場を説明するために

「アイ ホープ チルドレン カム」

と言ってみたりできるまでに成長した!

 

とぼけたぬいぐるみを見せてアイメイドと言うた段階で

全ての謎がとけた!というリラックスした雰囲気で

(銭湯帰りってのもあった)

 

興味しんしんの表情で

(インスタでともだちになってくれた)

 

話を聴いてくれたので

それもあって恥ずかしながらも挑戦できたように思う。

(関係性が大事)

 

「~なのか~なのか、どっち?」

ときかれたときに、すごく答え(応え)たくてたまらなくて

 

「ボース…」

 

ということばがくちから出てきたときには我ながらすごく驚いた。

自分の中にそんな単語があったとは…

単語すぎるし、こんなときの答えとして合ってるか(まだ言う…)わからなくて不安だったけど

言いたいことは伝わったようだった。

この経験はまったくもってうじゃの時と同じだった。

 

切羽詰まって、何か音を発しなくてはならなくなった瞬間、私からとっさに出てきた音は、中学の時吹奏楽部でトランペットを吹いていた時に練習した「ダブルタンギング」の音だった。トゥクトゥク…と発しながら、あ、私の中にこんな音が残っていたんだ。

 

zubunogakkou.hatenablog.com

 

目の前に「私」を待ってくれているひとがいる、

さしせまった場が、本当の「学校」だなと思う。

 

「私」が「私」のことを話す練習が学校ではほぼ封じられている。

(許されていても何らかの枠の範囲内、テンプレ)

英語でも国語でも。

でも本当は自分のことを話すことからし

ことばを発することなんてできないんじゃないかと思う。

「正解」があって、封じられていて、関係性がなくて、話す気になるだろうか?

 

自由につられてひょんな感じで自分の内から出る気まぐれな「音」

それが「ことば」の原点では?

不自由な社会では「音」は出てこない。

 

私は英語、フランス語、日本語と各国にことば(文化・歴史)があるように

東京、名古屋、大阪と地方によってことば(文化・歴史)があるように

Aさん、Bさん、Cさんにもそれぞれのことば(文化・歴史)があると思っている。

同じ日本語でも、外国語であって、

そのひとが言おうとしていることや言い方がなんとなく分かってくるまでに時間がかかる。

(この文章もずぶちゃん語)

 

私は「そのひと自身のことば、文法」というものに興味しんしんで

だからひとりひとりの言語を聴いてすぐに研究、まねしつつ返すことが自分は得意なのではないかと思っている(好きだから)。

 

それでインタビューをしたりもするけど

やはり本人に書いてもらうのが一番よくて

「そのひと自身のことば」を集めたものが

フリーペーパー「ずぶぬれ」なのです。

書いてもらう前に(書くのはハードルが高い)気軽に話してもらうのが

「ずぶの学校」という場所です。でありたいです。

そして私にとっても「待たれる場所」であり

関係が固定しない、全員にとっての「学びの場」を目指したい…

 

 

……って英語でなんて言ったらいいのかな?

(そういうことを考えるようになった…のも外国語を話すともだちができたおかげ)

 

Hervé さんまた来てくれるらしいので、英語で手紙を書いてみようかと思っています。

 

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カンスケです。

 photo by Mami Sakura

 

ぬいぐるみ・ドールつくってます。人形劇します。

ぬいぐるみも「マイことば(ずぶ語)」なんだなって知る体験でした。

www.instagram.com

ずぶ、ラジオをはじめる

3月末に、卒業生の女の子に

「ずぶ、ラジオやったら?!」

と言われて、恥ずかしながらラジオをはじめた。

(今はだれでも簡単にできる時代)

 

 

それもあって、この一か月は書くことから少し遠のいて過ごしていた。

 

学校の授業でもラジオ形式を取り入れて、生徒からもらったおたよりを読みながら

関係のない会話をしながらすすめるという方法で古典の授業をしたりした経験から

ラジオは自分にとって割と身近な方法だと思ってもいた矢先のことだった。

 

 

授業とラジオと公演

 

授業と公演の違いは、やはり準備(人間関係作りも含む)の差。

 

公演は打ち合わせ、リサーチ、クリエーション、広報、リハーサルなど本番までにさまざまな難関がある。たとえひとりで公演するとしても、音響や照明、撮影、などなど必ず誰かに手伝ってもらうことがあるだろうと思う。

 

だが授業はどうだろう? その時間、教室に行けば、はじまってしまう。チャイムが鳴れば終わり。よくよく考えれば、学校という組織自体に、その場をおぜん立て(演出)してもらって自分はそこにそれらしく立つということなのだが、組織なもんで誰にそうしてもらっているか(そうさせられているか)分からない状態、つまり、ひとりぼっちで前に立つことになる。

 

しかも授業準備というのは、往々にして「内容」の準備であって、「表現」の準備は少なめ(特に高校では)。いくら内容が整っていたとしても、表現がなければ伝わらないのに。むしろ表現(形式)のセンスの方が重要なんじゃ…? と思い始めたのが、偏差値が中間から下の層の学校に勤めて学んだ、いちばん大事なことのように思う。

 

それにしても、授業というのは多い。

週に3時間、下手したら4時間あることもある(ほぼ毎日やん)。

週に1時間、あるいは二週に1時間、あるいは一か月に1時間でもいいんじゃ…?

と私は思う。

それで1時間を90分、あるいは50分×2ぐらいにしてもよさそうなもんじゃ

と思う。

 

それぐらいでようやく準備ができそうだ。

というのは前に立つものだけでなく、学ぶ側にも(にこそ)なにかしらの準備と心の準備がいるのではないかと思う(人間関係作りも含む)。

 

自分で決めて納得してそこに行き、そこにいるということなしに

本当の「学び」は生まれないのではないか?

 

ひっきりなしに追われる授業というのは、お互いにストレスだ。

そういう状態で良好な関係を作るのはかなり難しい。

 

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で、こうなる。

 

現代文や古典にしても、ベテランになればなるほど同じ公演の場数を踏んで、ショー化し、思考停止していくのではないかと危惧する。

 

授業は先生の一方的な公演なのだろうか?

(「業を授ける」という言葉通りの意味ではそうかもしれない)

 

学ぶ側が自ら選んで、それを観たいならそれでもいいのかもしれないが、

学ぶ側主体の場づくり(という時点で学ぶ側が主体ではないおそれ…)というのはなかなか難しい。

 

先日、長年ファンだったDJマーキーさんのラジオの収録を観に行ったのだが、

もちろんひとりではなかった。スタッフはその場に3人いた。

 

  

ラジオは公演より授業に近いと思っていたのだが、

(「出たとこ勝負」感、「双方向」感、において)

出たとこ勝負だけど出たとこ勝負ではなかった。

 

音楽がかかっている間に、マーキーさんは紙(次のおたより?進行?)など入念にチェックしていた。

 

聴きやすい声というのは、大きいとかはっきりしているとかもあるだろうけど

「聴きたくなる声」ということだなと思った。

 

自分の話を聴いてもらえるし、読んでもらえるし、応えてもらえる声。

それをひとは聴きたいのではないかと思う。

 

授業の時間というか、教室という場所は、生徒にとっても、教師にとっても(立場関係なく)「学び」の場であってほしい。ひとりひとりが、そのとき話したいことを話せたらいいなと思う。

 

ひとは何をしていてもしていなくても「表現者」である自覚を持つべきだと思う。

したいからする、いたいからいるという認識を。

自分軸の主体性を。

 

部屋でひとりで録るラジオは、文を書くのに似ていた。

(一応勧めてくれた卒業生に向かって話しかけるつもりでやっています)

場によって変わる自分の声の変化をもう少し研究してみたいと思う。

 

 

△第一回 ずぶのひとりごと ~自己紹介①~
おそるおそる自己紹介しています。サティのグノシエンヌに歌詞をつけた「朝の歌〜自問〜」をぼそぼそ歌ってます。
https://www.spooncast.net/jp/cast/234166

△第二回 ずぶのねごと ~自己紹介②~
外山滋比古「思考の整理学」の一章と宮沢賢治の詩「告別」を読んでいます。ロングバージョンにチャレンジしてみました。
https://www.spooncast.net/jp/cast/236635

△第三回 ぼ~のぼ~のたいむ #0
孤独のグルメの話、ユニコさん出演の告知、石川啄木の歌。
https://www.spooncast.net/jp/cast/237818

△第四回 ユニコさんと ~新元号発表の日に~
4月1日、新元号発表の日にユニコさんにお話を伺いました。
https://www.spooncast.net/jp/cast/238495

△第五回 うねさん&たむたむさんと ~ずぶ邸でお茶~
芸大生のうねさんとご近所さんのタムタムさんとずぶ邸にてまったりしました。
https://www.spooncast.net/jp/cast/244901

△第六回 センスがないのは万死に値する~🖤
教員免許更新の葛藤をひとりごちました。
https://www.spooncast.net/jp/cast/257559

△第七回 『快晴元年のアップルパイ』出版記念お話会
ユニコさん著の『快晴元年のアップルパイ』の出版記念お話会@ずぶ邸 の第一部の模様。
https://www.spooncast.net/jp/cast/263792

ずぶの学校新聞 no.46

~どこでもそのまま在るための模索~

 

学校を辞めて空白の時間ができるつもりでいた4月でしたが、なんだか前よりずっと忙しかった。なぜ…

 

本を編集・出版したり、出版記念お話会で表現者の方々のお話を伺ったり、フランスの芸術家の方とお話したり、クリエイターズマーケットに出たり、出るために準備したり、

 

そのような過程で「芸術」や「アート」と一口に言っても、ひとりひとり意味も方法もとらえ方が異なるのだということが、以前から知っていたけど最近強く思うことです。

 

私は自分がやっていることを「芸術」とも「教育」とも「福祉」とも言えない、よくわからない(わけられない)気持ちでいます。どのことばもあまり好きではない。

 

今日は奈良にダンスの公演「わたしのいちばん好きな道 奈良編」を観に行きました。

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木村玲奈さんは、昨年の9月に旧ずぶ邸で踊っていただいたダンサーの方です。

zubunogakkou.hatenablog.com

私は玲奈さんの書く文章が好きで、前回のフリーペーパーずぶぬれにも投稿していただきました。

 

身体表現のことはよくわからないのですが、私は玲奈さんの「ダンス」の在り方が好きだということはわかります。自分がその土地、その場に在る意味のようなものを丁寧に体現されるその空間自体が作品で、それが玲奈さんの「ことば」なんだなと思います。

 

今回は、作品や文章が玲奈さんに少し似ている印象を持つ(私が勝手に持っているだけ)芸大生の采さん(昨年12月にずぶ邸で展示をしてくれた方)を誘って一緒に観に行ってきました(采さんは今回のずぶぬれに寄稿していただきました)。一人で行くのも好きだけど、一緒に行くのはいいなと思った一日でした。まちと作品の空気感を味わいながら、采さんの話も自分の話もじっくり聴けた。公演の数日前に送られてきたメールに、玲奈さんの手書きのマップがあって、そこに載っていたお店でエビフライ定食を食べながら(ここからもう公演がはじまっているようなもの)。
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采さんとは三週間ほどまえにずぶ邸でお話したあと、ラインで少し作品についてことばを交わしていて、でもお互い意を尽くせないままになっていたので話すことはたくさんあった。

 

「どこでもそのまま在るっていうのはどういうことですか」

 

と聞かれて、私は自分がそんなことを言ったっけな?と思ったけど、でもそうだったなと思い直した。どこにいても、そのままそこにいたい。場にそうさせられるからするということをやめたい。自分がしたいからする、いたいからいるという方向性を間違いたくない。納得というか自覚というか。自分の足で立つというか。それはひとりよがりな感じではなく、自然にそうありたいと思うのですが、玲奈さんはどこでもそうあるような気がして憧れます。作品を観ているのが好きです。

土地や場の声に耳を澄ませてそこに、場とともに在るという姿勢が…

場にそうさせられるだけではないぞという意志をもってそこにいるような。

そして場とともに来客をもてなすというおおらかで繊細な気風というのか…

 

「もてなす」ということばは、采さんが12月の展示のあとに
「自分は「もてなし」がしたかったのかなと思う」と言っていたことが心に残っていて使っています。来年広島の牧場に就職予定で、土地や場に興味がある。

 

そういえば采さんも彫刻を専攻していて「立体」だったなぁと観ながら思っていた。最近自分が「立体作品」が好きだということに再度気が付いたから。場に「在る」「居る」ということのおもしろさ、希望。

 

さらに言えば、それを自分が動かす(自分が場によって動かされる)ということが最高の「もてなし」になるのでは? そうなればいいな。

 

相手がいる場で動かすところまでが作品、いや相手がいることで変わりながら続いていく作品。作品によって生かされる人生。主体的にちからわざで作る人生。

 

「ホスピタリティ」ということばも思い出す。高校で働いていたとき、作文を書いてもらうために作った手書きのプリントを見た保護者の方がお手紙をくれた(しかも作文も書いてくれた!)ことがあり、そのときにいただいたことば。

 

 

自分とひと(「もの」も)が今その場に「在る」意味を丁寧に模索したい。それがわたしが学校の教室でもやりたかったことだった。場に作られるだけでなく、場を作る。あるもの生かしの場。今すでにあるもののパフォーマンスを上げたい。これからもどこにいてもそれは模索したい。根無し草なりに。

 

それは「表現」というのか「ことば」というのか「問いかけ」?「姿勢」「呼吸」…「立ち方」「在り方」「生き方」? 「社会」への希望というのか理想というのか。わからない。

 

奈良町物語館…わくわくする場所でした。2階は秘密基地みたいで居心地がよかった。

(写真はないです、あったのはこれ👇)

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2階にあった文章「うらはらなくら」のタイトル(全12回)がどれもよかった…

 

駅ができた日

3月16日、土曜日。小雨のち晴れ。

旧ずぶ邸の目と鼻の先にJR淡路駅が開通。

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カットされる前のテープ

 

こんなに近所に「駅ができる」なんて…

アンビリーバボー!

ずぶ邸でも負けじと(?)

念願の人生初テープカットをしました。

 

《路面劇場part1》

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《路面劇場part2》

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《路面劇場part3(テープカットあり)》

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その夜、開通した電車に乗って、ある一家がずぶ邸にやってきました。姉妹と両親。お父さんがずぶの友達で、楽器を作ったりされてる方で、妹さんとは一度お会いしたことがあったのですが、姉妹はずぶ邸の人形劇の舞台を見て大興奮し、そこにあった人形たちを総動員して、即興で人形劇をはじめました。

 

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劇がはじまりました

ああ、これはちょうどこれからやろうと思っていた「即興人形劇」!!

 

赤ずきんちゃんやその場で考えたオリジナルストーリーなど。こどもはエネルギー、スピード感があるなぁとかんどう…(童話もこどもの口から聴くと新鮮だった。そういうパターンなんだとか、解釈なんだ…とかいう発見があって「物語り」っていい。何回も聴きたい)。

 

小学六年生のお姉さんの方は反抗期らしく、ママのお人形を動かしながら、

 

姉「ゆきだるまさちこです」
母「女なんですね」
姉「男です」
母「ご結婚されているのですか」
姉「はい、ノブスケさんと言います」
母「え!」
姉「女です」

 

と常識と思われることと逆のセリフをどんどん作っていきます。

 

母「お仕事は何をされてるんですか」
姉「……カツラ作りをしています」
一同「え!」
姉「カツラ国のユキダルマ人です」
妹「お悩み相談ありませんか」
姉「あの…実はわたし…がんなんです」
一同「え!」突然のカミングアウトにざわつく。
「……がんはがんでも、元気になるがんです」

 

 

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お姉さんは人形の後ろにいます


その場で考えながら、みんなが普通思わない、驚くようなことを言おうとしていたのだと思います。それって、とても大事なことだ。ロックの精神。自分はそうじゃないんだ!という野心やレジスタンス、社会参加(そういうのが教室でも嬉しかった)。

 

元気になるがん…考えたこともなかった…確かにそういうこともあるかもしれない。思い出で生きている人間だもの…

 

両親ともに成長期で反抗期の娘への接し方に苦労されているそうで…つい激しく怒ってしまったこともあるとか。夫婦喧嘩なども日常的に見せているということで、子育ては難しいという思いと、「家制度」が無理という思いがまたしてもこみあげてきました。

家族(主に親?)だけで子どもを育てるなんて無理。昔は近所や学校や寺やいろんなところに、家族以外の大人がいて見守っていてくれたけど、今はそういうものはほぼ滅び去ったのに家制度だけが「自己責任」だけが厳然と残っていて…家の問題を家の中だけで解決するのは無理。学校の問題も同じ。

私も小学校高学年から中二ごろにかけて、両親が不仲で家庭内別居状態で、毎日のように母から父の悪口を仕込まれて、父キモイ論者に…(かといって「母の味方にもならないよ」とは言いながらやはり母の味方になってしまう。「男尊女卑」思想への反発心つのる)。ともだちや兄とはげしく遊んだりしていた、あれは、しのいでたんやな~~~ってことを、姉妹を見て思い出した(気が付いた)のでした。

遊びは一種の逃避でもあり、反抗の手段でもあるのかもしれない。それがないと「希望」がないと生きていけないなとそういえば中学校、高校からの帰り道によく思っていました。運よく友達に恵まれて、遊びの内容が一見牧歌的で、作詞作曲や、脚本録音や、漫画読んだり描いたり、ゲームしたり、人形作ったり。今やっているようなことの基本はここで友達から教わったのです。あまり気が付かなかった(気づかれなかった)けど、かしこくしのいでたなと思います。今と同じかもしれない。今は家庭の問題(もあるけど)ではなく社会(職場)の問題で、だけど。

親に対しては、人間的に好きな面、文化的に尊敬できる点、感謝の気持ちがあるのですが、その裏面にあった暗黒時代のあきらめきれなさ、許せなさ(がん)がだいぶつもってかたまっていたかもしれないと思います。親に対して(だけではないけど)、はっきり口に出して言えないひとだった(今もまだ苦手)から、書く方が発達したと思う(これは障害だと思う)。反抗期も特になかったために、絶賛反抗期ナウ。

お姉さんもだいぶつもってるのかもしれない。こういう遊びで発散しているのかもしれないと思うと切ない。私の遊びもそうだけど。遊びは切なくもある。希望でもある。命の光。

父と兄が家を出ていった春のころ、だだっ広くなった家の中で母と二人でピクニックをしておにぎりを食べたことが印象に残っています。あのとき「ああ、この母を一人で背負っていかなあかんのか」と思った。「悲しませないようにしなあかんのか…」「重い…」と思った。中学三年生の春。そのころからスピッツや文学作品(「ことば」)を欲するようになったんだった。

 

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小学生の時、住んでいたマンションにななめに動くエレベーターがあって、いくつか窓があって、その外は階段になっていたので、階段から窓辺にお人形を置いて中のひとに見てもらうという遊びをやっていたことを思い出した図

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おめでとう

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テープカット前

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出演者たち

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スタッフ~

 

この文章を書いた後に見つけて深くうなずいたことば。これを読んでアップしようかなという気持ちになりました。何度解いても、この答えにたどりつく。

 

老後は今

阪急淡路駅前にある

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の主人のひとりモリヤンヌちゃんに紹介してもらった本を読みました。

 

「ポリアモリー 複数の愛を生きる」深海菊絵(平凡社新書)

 

いきさつはこちら↓↓ 

山崎ナオコーラさんの本からのかんそうのようです…ナオコーラさんは高校一年生の生徒に教えてもらって冬休みに読みました。

 

ポリアモリーとは??

 

わたしたちの生きるモノガミー(一夫一婦の結婚※ずぶ注)社会では、一人の人間を愛し、貞操を貫くことこそが「誠実」な愛の証。いくら真に愛していようと、その相手が一人でない限り、自分の愛の「誠実さ」を伝える術がないのである。

だが、しかし……。

「複数の人を本気で愛している」という自分の気持ちに、嘘をつく必要はないのではないか?と考える人びとがいる。彼らは「<一対一>の愛だけが正しいわけではない」「愛は社会規範が保証するわけではない」「愛する人数は自分の意志で決めるべきだ」と主張し、新しい選択肢を加えた。

それは、同時に複数のパートナーと「誠実」に愛の関係を築くという道である。複数愛の可能性を探求する彼らは、自分たちの愛のかたちを「ポリアモリーpolyamory」と名付けた。

複数愛といっても、ポリアモリーには条件がある。それは自分と親密な関係にある全ての人に交際状況をオープンにし、合意の上で関係を持つこと。したがって、パートナーに隠れて複数の人と関係を持つようなことはポリアモリーではない。また、ポリアモリーは性的な関係を持つことを第一目的とするスワッピングの人間関係とも異なる。ポリアモリー実践者の目指す関係は、感情的にも身体的にも深く関わり合う持続的な関係である。

 

 深海さんがアメリカにフィールドワークに行き、ポリアモリー実践者へのインタビューを試みてまとめたのが本書。実際に出向き、インタビュー、対話を通して学ぶという民俗学的方法は私がやってきているやり方ドラクエでいうところのコマンド「はなす」。まずはなす)とも似ている気がして(勝手に)、上から目線じゃない謙虚な書きぶりに親しみを持ちました。(ご本人はまだ実践者ではないそう。)

 

逆にもっと自信を持ってもいいのでは?!と思うほどでしたが、デリケートな問題でもあり、また現代社会においてはマイノリティなので、きっと風当たりもきついのだろうと想像しました。

 

以下、ポリアモリーの考え方に個人的に共感した点をまとめてみます。

 

◎小説から着想を得て実践する

ポリアモリストが「ポリアモリー(的な関係)」を知ったきっかけの中で割と多いのが「文献」で、特に「SF小説」が多いらしい(P66~)

 

実はポリアモリーSF小説には深い関係がある。ポリアモリストの間でとりわけ有名なSF作家は、ロバート・ハインラインだ。彼の小説の特徴は、既存の社会規範に疑問を呈し、オルタナティブな性愛関係や家族を描く点にある。ハインライン自身もオープン・マリッジを実践していたようである。

ハインライン異星の客(Stranger in a Strange Land )』(邦訳一九六九)は、宗教やポリアモリー的な関係を扱った作品である。ストーリーを簡潔に述べると、火星人に育てられた地球人の男が、地球に帰って友人や恋人をつくりながら自分とは異なる地球人の思想を理解し、火星人の思想が反映された独自の宗教を開いていく、というあらすじである。この小説は「ヒッピーの聖典(バイブル)」と呼ばれ、当時の社会に多大な影響を与えた。驚いたことに、『異星の客』の熱狂的信者たちによって宗教団体まで創設されている。その宗教団体というのが、先に述べたペイガン(ペイガンは「異教徒」を意味し、キリスト教以前の多神教の信仰や自然崇拝を特徴とする、らしい※ずぶ注)の「全世界教会(Church of All Worlds)」なのである。

「ポリアモリー」という語をはじめて使用した人物に関しては諸説あるが、有力な説のひとつに全世界教会の創始者であるモーニング夫妻という説がある。(略)

このようにポリアモリーSF小説は切り離せない。しかし、現在はSF小説や対抗文化(カウンター・カルチャー)と全く関係のないところから、ポリアモリーに関心を持つ人びとが増えてきている。

 

実際、深海さんも高校生のときに読んだ江國香織の『きらきらひかる』が「ポリアモリー的な関係」に興味を持つきっかけになったそうだ。

 

映画や小説やドラマの設定を現実にしていく、というのはものすごく共感するポイントで、映画や小説やドラマは一種の理想郷として描かれていたりすることもあるだろうが、理想はイメージすれば着々と叶っていく(というか、ちからわざで叶えていく!という意志を持てばよい)と私は思う。別にあきらめなくてもよい、と思う。

 

私自身、3年ほど前に「ずぶの学校」を一種のフィクションとして建てた(?)わけだが、現在はあとから現実がついてきている節があると感じている。

 

私が参考にしている設定も多々あるのだろうが、一番は黒澤明氏のまあだだよという映画。漱石「坊ちゃん」「木曜会」(こちらは実話)渡辺崋山の絵(下)などもイメージの参考になっているかもしれない(おいおいリスト化したい)。

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渡辺崋山「一掃百態」


 なぜ家族は解散したら、友人は結婚したら、生徒は卒業したら、同僚は職場を辞めたら、関係が途絶えるのか。切りたい場合はそれでいいのですけど、ゆるくでも日常的につながっていることはできないものか…なぜ結婚していないと相手の抱えている問題に踏み込んでいけないのか、なぜ友人が結婚していたら、私は問題の当事者でいられなくなるのか。なぜ血がつながっていたら相手の問題にずかずか踏み込んでいける、踏み込まなければならないとさえ思っているのか、なぜ家庭や学校の中では法が犯されても放置されるのか…本当に「家族」で支え合って生きているか? 心を通わせているといえるだろうか? 本当に「家族」だけで支え合わなければならないか、家族とはどこからどこまでを指すのか…

 

人生に深く関わり合う持続的な関係はその意志、意識さえ持てば、一人一人がもっとできることはいっぱいあるんじゃないか?と思うわけです。

 

◎「老後」では遅い(老後とは?)

私は「老後」という言葉を聞くといつも違和感を感じる。自分にいわゆる「老後」があるとは思えないからだ。というかどこからが「老後」なのかわからないからだ。私はこの、生きることを前提にしたことばをもどかしく感じる。当たり前のように「老後」が来ると信じて生きていくことが私にはできない。人間は必ず死ぬし、老少不定の世の中なのであるから、死ぬ直前を「老後」とするなら、今日がすでに老後なのではないかと思う。老後がはじまっている、老後へのイメージに向けて具体的に動き出しておくのは今なのではないかと思う。老後、急に型にはまったような「幸せ」になることはできない。それを幸せと思えるとは思えない。今から幸せ(理想)について考え、熟議し、幸せへ向かっている、幸せの途中、幸せのさ中にいたい。その中で死んでいきたいと思う。

 

フィールド・エッセイ6 <他者>とともに生きる(P212~)

 

「理想的な場所は、ナガーノ? 家を購入する際に支払える金額、不明。月々の支払い1000ドル以下。人数10名くらい。理想はパートナーや仲の良い友人たちとみんなで協力し楽しく老後を過ごすこと」

ケイトは紙に書かれたものを読み上げた。

「これ書いたの、あなたね?」

ケイトは訝しげな顔でわたしに尋ねた。

「はい」

今日のミーティングのテーマは「グループ・リビング」。グループ・リビングとは、複数の人が集まって暮らす居住スタイルのことだ。ミーティングがはじまると紙が配られ、そこに自分がグループリビングを実践するなら、①理想的な場所はどこか ②家を共同購入する際に支払える金額 ③月々に支払える金額 ④どんな人と暮らしたいか ⑤人数 ⑥その他の理想、を記入せよ、ということだった。記入された紙はケイトのもとに集められ、彼女が一つ一つ読み上げていた。

(略)

「そもそも君はなぜ、グループ・リビングを老後に限定しているんだ?」

質問といより、批判の声だ。

「わたしは大学もありますし、パートナーは仕事もありますし」

そう答えると今度は30代の女性が「いいかしら」と切り出した。

わたしたちは夢について語っているけど、それは同時に現実可能なプロジェクトについて話し合っているってことなの。わたしは仕事もあるし、子育てもしているわ。あなた、現状でグループ・リビングするとしたら…」

彼女の発言で、このミーティングの主旨をはじめて理解した。

 

自分の理想の家族、友人関係、状況、つまり社会を作るのは一朝一夕でできることではない。すべてが思い通り、計画的にいくはずもなく、どんな状況にも対応できるように今からこつこつ努力や試行錯誤が必要なはずだ。これは職場でその場限りの人間関係を円満にするために四苦八苦するよりもっと切実に大事なことではないかと思う(実際に困ったときに職場のひとが助けてくれるような関係性ならいいのだけれども)。仕事に没頭して時間を消費しているばかりでは自分の幸せが何かを考え感じることのできないひとになると危惧する。多くのひとが考えることを先送りしている問題について、今考え、布石を打っておいたほうが未来につながる可能性はまだあるのではないか。そういうひとが増えれば、もう少しゆったりした社会になりそうだし、人々はもっと楽に(本当の意味で)なるのではないかと思う。

 

◎オルタナティブな家族創造 

 

フィールド・エッセイ6 つづき(P214~)

 

「理想的な場所は、ウエストハリウッド地域。購入の際に支払える金額は検討中。理想的な月々の支払いは1200ドル以下。人数は10名以下。理想は異なるジェネレーションから構成されるグループ・リビング」

ケイトは読み上げると、意味不明の言葉を明瞭に発した。

月は無慈悲な夜の女王(Moon is a Harsh Mistress)!」

後で知ったことだが、「月は無慈悲な夜の女王」というのは、ロバート・ハインラインSF小説のタイトルである。この小説には「ライン・マリッジ」と呼ばれる異なるジェネレーションの人びとからなる複数婚が描かれている。

 これを書いたのは、60代後半のウィリアムだった。彼はわたしがインタビューしたなかで最年長の男性で、現在一人暮らしをしている。彼はヴェトナム戦争経験者であり、戦場で多くの友人を亡くした。生をいかに豊かに生きてゆくことができるのか。この問いを強く意識するようになったのは、ほかでもなく戦争の体験である、とウィリアムはいう。帰還後、彼は関心のあることに次々と挑戦した。そのなかの一つが、既存の結婚のスタイルに囚われない生き方であり、当時の妻とともに「ファミリー・シナジーのメンバーになった。

「ファミリー・シナジーはコミューンではない。オルタナティブな家族を築いている人びとのサポート教育グループだ。ファミリー・シナジーの理念は、自分とは異なる<他者>を認めよう。それだけだ。」

シナジーという言葉は、「相乗効果(協働)」である。ウィリアムは<他者>との協働について、二つに分けてわたしに説明した。

「一つは、自分とは異なる家族を築いている<他者>との協働だ。モノガミーのファミリー、ゲイ・レズビアンファミリー、シングルマザー・ペアレント・ファミリー、ステップファミリー、ポリファミリー。アメリカにはさまざまな家族のかたちがある。みんな大切な人と暮らしているだけだ。もし隣の家が自分と異なるファミリーであっても、受け入れ、助け合うことができたら日常は豊かになろう

 もう一つは、家族内の<他者>を受け入れることから生じる。血や法の絆があるかどうか、一緒に住んでいるかどうか、あるいはセクシュアリティの違い、ジェネレーションの違い、それらに関係なく互いを認め、ともに生きていければ、素晴らしい相乗効果が期待できよう。自分とは異なる<他者>を受け入れることは、自分の人生を豊かにする道具(ツール)になりうると信じている」

 

私は、ひとつひとつの家族は「~ファミリー」という便宜的な枠にあてはめることはできない固有のものなので、「もし隣の家が自分と異なるファミリーであっても」ではなく、「隣の家は自分とは異なるファミリーであるが」だと思う。

 

「ポリアモリー」について、私が共感した部分は以上のようなことだった。

 

わたしは「愛」と「アモリー」が同じものなのかどうか、「日本」と「アメリカ」の価値観の相違、「家」制度の歴史の相違があるように思うので、そのあたりのギャップによる(?)違和感はぬぐえない。なので、「おわりに 日本のポリアモリスト」以降の事例には若干上滑りのような感触があった(「ポリアモリー」は性的関係を第一目的とする「スワッピング」とは違う点は共感)

 

なんにせよ、「対話」の文化・土壌がない日本(日本語)(そして「家」の中は最もそれに乏しい傾向にある)で、「オープン」「合意」「責任」「誠実」「自由」「協力」「コミュニケ―ション」「信頼」「尊敬」「感情」「持続的」を肯定的にとらえる「ポリアモリーを急に実践しようにもレベルが高すぎるようにも思う。

 

わたし自身、欧米的な「アモリー」をあまり持ってないように感じる。「こころ」「まごころ」「誠実」「思いやり」「やさしさ」「丁寧」「大切」「尊重」「人間と人間のつながり(仁義※)」というようなことばが、わたしにとっての「アモリー」の訳語かもしれない。

 

※仁義=古代中国、孟子の中心思想。仁は博愛の徳、義は悪を恥じ事の理非を区別する徳であり、いずれも人間に生得的と説く(性善説)、の方。

仁義(ジンギ)とは - コトバンク

 

モリーの表現には、ことばとからだ(行動)の両方が必要だと思う。というかむしろ「からだ」が先行している方が説得力がある。

 

ずぶ的ポリアモリーの実践として「宇宙友朋会」「ぺんぱるくらぶ」があり、ほそぼそと続いていて展開していっている最中なので、少しずつ紹介していけたらと思います。

 

「ことばとからだ」に関してはコチラ↓↓

zubunogakkou.hatenablog.com

「ぺんぱるくらぶ」のとりくみはコチラ↓↓
zubunogakkou.hatenablog.com