もやもやずぶちゃん

ずぶの学校校長のやかましみさきです。高校で国語を担当して10年ほど経ち、活動が学校の外にもはみだし気味。ゆる~くほがらかに絵や文、俳句、ぬいぐるみの創作、人形劇、手作り作品のお店をしています。おたよりください。zubunogakkou.com

もやもやずぶちゃん

ずぶの学校のやかましみさきです。

高校で国語を担当して10年ほど経ち、活動が学校の外にもはみだし気味。

学校や社会の問題をみなさんと、ゆる~くほがらかに考えていきたいです。

絵や文章、ぬいぐるみの創作、人形劇、手作り作品のお店、表現教室をしています。

おたより待ってます。zubunogakkou.com

ずぶとじぶがゆく① ~藝賭せ面接編~

大阪空堀のまちで踊った「ひょうたんの踊り場」から

約一年半の時を超え

zubunogakkou.hatenablog.com

zubunogakkou.hatenablog.com

 

次なる公演をもくろむずぶとじぶは

夏ごろからじわじわと動き始めていました。そして…

 

11月に神戸は新長田の「藝賭せ(げいとせ)」というイベントに参加させてもらうことになりました!

shinnagataartmafia.wixsite.com

 

おめでとう!!ぱちぱち!!

 

そのオーディションは書類選考を経て、面接が8月31日に行われました。

まだまだ暑かったあのころ…ぽわわわわ~~~ん(回想)

 

於:はっぴーの家ろっけん(神戸・新長田)

(はっぴーの家がどれほどエキサイティングな場所であるかはそのとき知るよしもなかった…)

 

面接は「プレゼン5分、質疑応答10分」とのこと。

 

ずぶは、もともとパワーポイントを使った(使わなくても)THE プレゼンが大嫌い…

(そもそも面接が嫌いなんですよね~どうしても上下関係があるからね、その構造をどういった茶番(とんち)で乗り切るか(壊すか)ずぶ'sポイントとなります!はいっ線引いて!チェケラ!

 

嫌いだけど今回はひとりじゃないからイケル…!!

「ふたり」がキボウ✨

ふたりいるのに、ひとりで淡々と説明するのはおもしろくもなんともないので

にわかにやりたくてたまらくなっていた「漫才」を取り入れることに!

(「ちょっと勇気いるなぁ~」と言いつつも、やりたいやりたいとせがむずぶに応えてくれるサービス精神旺盛なじぶどの…)

 

江戸のおじいさん(ずぶとじぶ)が二人で話をしているという設定と脚本をこしらえて急遽、稽古に励みだす、ずぶとじぶ…

 

☆=二人で言うところ

 

(ず)ずぶでーす
(じ)じぶでーす


(ず)二人合わせて
(☆)ずぶとじぶでーす

 

(ず)さて、じぶさん、ずぶとじぶってーのはいったいどんな二人組だい

 

(じ)おめーさん、自分のこと忘れっちまったのかーまー一言でいうと

「参加型パフォーマンスユニット」(フリップ出す)かな?

 

f:id:zubunogakkou:20181025204818j:plain

(ず)参加型だって?!?!


(じ)「参加」の部分にはどんなふうに参加するかが入るんだぜ!たとえば、「探検型パフォーマンス」。これは、大阪は空堀でやったんだが、商店街や路地裏でおどってるダンサーを、参加者に発見してもらうってーパフォーマンスだった。ほれちょいと見てみな(PCで見せる)

 

(ず)そうじゃったそうじゃった。どわすれしとった。こりゃあおもしろい企画じゃったなあーー

 

(じ)実は他にも「会議型パフォーマンス」「教室型パフォーマンス」「法事型パフォーマンス」などがある。

 

(ず)して、今回は何をしでかそうってんだっけ??

 

(じ)おいおい、また忘れちまったのかい?! 

 「CM型パフォーマンス」じゃろ。題して…

 

(☆)「新長田こまーしゃるパレード」(ドヤ、と前向く)

   (肝心なところでフリップはない、作り忘れたね…)

 

(ず)そうじゃ、じぶどのは趣味で「新長田のラジオCM」を勝手に作っておったなあ~

 

(じ)うむ、今回はそれを実際に商店街で流してもらったり、CMを実演しながら商店街を練り歩いたりしようって算段だ。

 

(ず)チンドン屋的な!

 

(じ)まあ、ためしにおいらが作ったCMをきいてくれ

 

(ず)おうともよ!

 

(ミャンマーカレーteteCM)
(ず)かわいい~
(じ)ダンサー御用達なんじゃ

 

(マルヨネCM)
(ず)ううむ昭和の香り漂う……
(じ)下町ふぜいじゃな

 

(アグロガーデンCM)
(ず)ん!犬かあ~~

 

(じ)んまー勝手に作ったんだけどね、しかし今回はお店のひとに聞いてもらって、よければお店で流してもらったり、よければパフォーマンスに参加してもらったりして、地域のひとと交流しながら作っていきたいと考えておる。

 

(ず)なるほど、まちのひととアーティストが関わりながら、

 仲良く楽しくなるような相乗効果のある作品になればいいのう!

 

(☆)NAKAYOKU TANOSHII(フリップ)

 OMOIYARI!!(フリップ)

 

 

ありがとうございました。

 

自然なかけあいになるまで、何度も練習する二人…

(於:ミャンマーカレーtete)

 

f:id:zubunogakkou:20181025195003j:plain

まるご市場入って(どこから?!)左側、ミャンマーカレーtete

 

時間になり、懐刀を仕込んでついにやってきた、

はっぴーの家ろっけん…

 

たどりついてみると、玄関前がざわめいている…

まだ準備が整っていないらしい…準備??

裏情報によれば、マフィアの方にもなにやら演出があるらしい…ナヌ?!

怪しい雲ゆきになってきたぞ…

 

しかし! われわれはわれわれの道をゆくのみ!

 

f:id:zubunogakkou:20181025194411j:plain

一階の玄関前で鏡(車)を見ながらしばし稽古。よしよし、自然なかけあいになってきた。

 

すると謎のメイドさんに二階に通され、昭和なムード漂う部屋へ…

f:id:zubunogakkou:20181025194639j:plain


歌謡(?)も流れている、謎のおじいさんに声かけられる。

これも演出なのか? 座敷で面接なのか?

 

と思ったら、さらに上の階に案内された。

その部屋は暗く、

荘厳なクラシックが流れていた…

ヘンデルの「サラバンド」だそうです)

 

 

「え?ここかね?」

(スリッパのままきょろきょろするじいさんたち←ずぶじぶ)

 

広間には…な、なんと…

マフィアがずら~~~~りと並んでいた!!!

 

こんな感じ↓

 

www.instagram.com

こんなに明るくなかったヨ…

(はっぴーの家の首藤さんのインスタより)

 

どっひゃー!!

なんか…にらまれとーる…!!

(なるほど、そうきましたか…←だれ)

 

こ、これは…!!

普通に面接されるより断然おもろいやないか!

(しかもこちらにも仕込みがあるのだからさらにおもしろくできる予感!チャンス!)

と俄然はりきって、ゆらゆら漫才をはじめる…

ずぶで~す、じぶで~す……

 

この雰囲気のギャップは前代未聞すぎる! 何対決??

(と心の中でげらげら笑いころげるずぶ)

 

相手との距離、室内の明るさに問題があり

せっかく用意した映像(パソコンの)、渾身のフリップ(←描きたかっただけ!)はたぶん見えなかったのでした…

(でもやりました!←やりたかっただけ!)

 

しかし!!肝心のCMは

音声だけのラジオCMだったため

完全に室内に響きわたったのです!!

 

♪~

「オイシイカレーに カワイイコモノ
 マチでウワサの ミャンマーカレーテテ 

 マルゴ市場ハイッテヒダリガワ マッテルヨ~」

 

片言の日本語でチャーミングに話す外国人女性の声(じぶどのです)に

笑いをこらえきれないマフィアたち…

 

そのあとの質疑応答では

「で、上納金は?」といかめしく問われ

「じょうのう??」「Jyo-no-??」とぽかんとしていると

「何を納めてくれますか?」と通訳してもらい…

 

あ、これ…キタ!! フリや!!!!

と勇んだずぶ(勇みがち)が

「NAKAYOKU TANOSHII OMOIYARIです。」

きっぱりと答える。

 

クスクスクス…

 

ボスらしきひとに「……具体的には…?」と問われ

すかさずきっちり説明する(フォローする)じぶどの…

(具体的には、上記の漫才の後半の内容です、おそらくインパクトが強すぎて内容が全然頭に入ってこないパターンになってしまったのではないかと思われます。#ずぶあるある)

 

終わって別室に案内されると

2人のマフィアさんに普通の感じでお話を聴いてもらえました。ほっ。

広間の方からも、どっと笑い声が聞こえてきて一安心。

 

マフィアごっこ(やりたいだけ!)VS江戸っ子ごっこ(やりたいだけ!)の

ある意味緊迫した、やりたい放題のゆるい一戦でした。

(これぞ「面接型パフォーマンス」だねっ)

 

あーやりたいことなんでもやっていいって嬉しいなぁ~~~

やっていいんやな~~~健康いちばん!

アートは自由だ。ありがとうっ!(?)

 

 

そんなこんなで目下、新長田のまちのCMを鋭意制作中です!

 

11月18日からの藝賭せ開きで商店街はどんな雰囲気になるのでしょうか!

そして25日の練り歩きは??

(かわいいデモ行進に参加したい方募集中です)

 

面接後、「今日の大仕事が終わったービール飲みたい!」

と日の目を見なかったフリップと新長田駅で記念撮影するずぶとじぶ↓

www.instagram.com

ずぶの学校新聞 no.42

~ぺんぱるくらぶのこころみ~




先月再会した兄の話を書きましたが、9月の彼の誕生日に自分の人生を振り返った文章を書いてくれました。驚くほどいい文章で感動……それもあって、複数人のSNSグループで文章の交換を気軽にできる場所を作りたいと思い、結成したのが「ぺんぱるくらぶ」です。

 

もともと、文通クラブはやりたいことリストに入っていたのですが、紙に書いた手紙はいまいち回っていかず、そのままになっていました。その時間にひとところに集まることにはやはり苦労がともなうし、このご時世そんなことをしなくたっていくらでもできるんじゃ…と思い、ライングループのノート機能を駆使してそれぞれのひとが気軽に発表しています。



《ぺんぱるくらぶとは》

・主にラインノートでのお手紙交換。コメント機能での対話。

・投稿、返信の義務はありません。

・ここでの内容は基本的にオフレコ(自分の文章をどうするかは自由)

・退会自由



そもそも私が国語の授業で文章を書くようになったのは2014年ごろからで、それまでは生徒にはやらせるけど自分は書かないのでした(今考えたらありえないことです)。一度「すべらない話」というお題で生徒に書かせる前に自分で書いてみたときに(兄の話でした)同僚だったユニコさんに恐る恐る見せたらとても褒めてくれて「自分も書く!」と言ってくれたことがきっかけで、まず自分が書くスタイルに……

 

それ以降、ともに切磋琢磨できる仲間のおかげで作文のお題(参考作品)のみならず、授業のプリントの隅、テストの模範解答の裏、生徒のノート、作文への返事(基本、同じ量を返す、よい場合は倍返し←怖い)、学年通信、学級通信、図書だより…と場所を見つけたり、ない場所を切り拓いたりしながら、二人でどんどん今まで自分たちも知らなかった能力を発揮していったのでした。

 

生徒という読者もいるけれど、そこに今すぐ伝わるかどうかはいつも賭けでした(教育?の効果は十年、二十年後、下手したら五十年後に現れるかどうかといったものらしい…孤独)。でもユニコさんには今すぐ必ず読んでもらえるという安心感がやりがいになっていて、もっといいもの、もっとおもしろいものをと追求できたから続いたのでした。その生徒たちが卒業するころには、最後の授業で書いてもらったメッセージにひとりひとり返事をしていて…すべてコピーしてある…怖い(写真)。「手紙魔」か!


ひとりのひとに宛てるのは手紙の基本だと思います。だれかの宛先になることが嬉しいのでした。しかし私たちは読んで読んで書いて書いてを毎日繰り返し、二人で手紙の交換をしすぎたことによって(さらに二人の間には手紙・長文のラインの交換も並行して行われていたのである…5年…怖い)、どんどん孤立してしまったのでした。(今の私の文章の土台はほぼユニコさんとの共作であるといっても過言ではありません。)


そこで、もっと文通の輪を広げるべく、このぺんぱるくらぶには、ずぶで一緒に文通クラブをしたいと言ってくれていたお友達、新たに登場した兄、そしてユニコさんとユニコさんの新たなお友達を加えた五人でひとまず結成してみることにしたのでした。(夢のバンドです!)



《ぺんぱるくらぶの目標》

・みなさんがひっかかっていたり、問題に思っていたりすることを少しでも分かち合う

・依存先を増やし、自立する

・自分がどうしたいのか、どう思っているかなどを整理して心の健康を目指す



つまりみんなが先生、みんなが生徒の「自助グループ」なのでした。このこころみをしてみて気が付いたのですが、現代の多くのひと(特におとな)が、本当に話す(書く)場所がないということ、聴く(読む)経験も少ないということ、ひとりで困っているということ、そういう話をする以前の問題(文章表現へのコンプレックス←学校教育の責任や人間関係や日常の雑務、しがらみ、固定観念)でつまずいていて話し合いや思考を深めるところまでいたらない(それは何事にも言えそう)、そういったことがはっきりと見えてくるのでした(上記のような学校での私たちの狂気にも今さら気が付いたのでした)。



このこころみに関しては、メンバー(需要)に合わせていくつもグループを作ったり、手をかえ品をかえ、よりよい方法を試行錯誤しながら続けていきたいと思うし、さらに今後はそのメンバーとゆるく連帯しながら社会にも訴えかけていけたらと思っています。



私はこういうことがしたかったのだと思い出したのでした。作文教室とは、みんなが自分の話を話し(書き)、聴く(読む)場所だと思うのです。こどももおとなもそのひとに合った文章を書けるよう、書きたくなるような場所を、ずぶの学校では提供したいと思っています。


《ずぶの学校木曜会(作文教室・ぺんぱるくらぶ)》

木曜日に文章を持って来ていただくか、メールにて受付。おもに一対一でやりとりしながら、そのひとがそのひとのことばを表現する場所(発表の場所)を作ります。

www.zubunogakkou.com



 

かましみさき

 

とんちばあさん(半人前)

今日は呼ぶにしても書くにしても、ちまたで話題にするのがそもそも難易度の高い「配偶者」について挑戦的に書いてみようと思う(お気を悪くしたらすみません)。

 

赤松氏は今日誕生日だから大目に見てもらいたい。
(ただ、誕生日にそのひとのことを書くのはいいなと思う。生きていても供養というか、新しい冠婚葬祭の方法としていかがだろうか?)

 

といってもちろん特別なことは何もしないのだが、彼が小さいころ好きだったらしい「一休さん」の動画を見せてきた。

 

私が家で学校や社会への不満で、きいーーーーとなっていると、時折「とんちんかんちんとんちんかんちん…」と歌いだすのでこのひとはなんだ?と思っていたが、それは一休さんのオープニング曲だった。

 

あーーーー
あーーーー
な・む・さ・んだーーーー(ほんまそれ)

 

とんちんかんちんとんちんかんちん
気にっしないっ♪
気にしないー気にしないー気にしないーーーー

 

(そうそう、ずぶは「キニシー」か「オカマイナシー」かと言われたら「オカマイナシー(O型気質)」だと友達にも言われたことある)


幼き頃にアニメを見た記憶はあるが、どんな話だったかほとんど覚えていなくて、どーせ説教臭い話だろうと舐めていた。

 

が…見て驚き…!!
ちょっと…泣いてしまった…


有名な話は、ご存知かもしれませんが、「屏風の虎を捕まえよ」と将軍に無理難題を命令(パワハラ)されて(「とんち小坊主なんとする」暇か)、「やな感じぃ~」(声かわいい、ハイジみたい)と心の中でぼやきながらも(けんかは弱いらしい)、とんちで返す(茶番には茶番を)わけだが、

 

それはまさに自分が目指すもの…

 

LIFE!!(うっちゃんのコント番組、とぼけてる)

的な展開による解決(うさばらし)

 

じゃないか!と驚いた。


また他人とは思えないひとがここに!!
(あ…わたくし他人とは思えないひといっぱいいまして…)


今やったら、将軍VS一休=校長VSずぶやん…
(将軍は一休を試してるけど、校長はそれほど大物でないのが残念ね)


次に見た話は深すぎてびびった…
これはこどもが見るもの?


一休さんが町を歩いていると、新右衛門(将軍の部下、ミドルリーダー、一休さんを慕う)が後ろからついて来るのだった。

 

「なんでついてくるんですか!」

一休さんのもとで修行をしたいんです。いーじゃないですか」

 

(ずぶ「きもい」
氏「しゃーないねん、指示待ち人間やねん」)

 

とかなんとか言っていると、通りで巾着きり(すり)をする少年を目撃。ミドルがぎらついて即座に「捕まえてこらしめる!」と勇んで出ていこうとするのを一休さんは制する。

 

「こんなに大勢のひとがいるところで捕まえたら大事になって彼が一生立ち直れないじゃないですか!」

 

えーーーーーーやさしーーーーーーーー(泣く)

 

それで、新右衛門はあきらめて見過ごしたが、よくよく顔を思い返すと実はそれは亡き友人の息子千之助だった。(そう、家庭環境のよくないこが小犯罪を犯してしまいがちなんだ、そして大々的にとがめられるんだな…)

 

一休さんはお寺に帰って一晩本気のとんち(解決策)を考える。それを見守る新右衛門とお師匠さんと他の小坊主たち…

 

翌朝一休さん「これで大丈夫とは言い切れないですが、賭けてみるしかないです」(それ毎時間毎時間教室に向かう時の気持ちな泣)という策を実行。

 

同じ通りで、変装した一休さんの懐の巾着を千之助に盗ませる。その巾着の中には銭のほかに、なんと千之助の父の位牌が入っていた!!おびえる千之助…

 

改心した千之助は後日一休さんのしわざだったと聞き、お寺にお礼と謝罪に来たのだった。新右衛門は何もしていないくせに、すでに謝っている千之助をどなりつけて説教する。


(ずぶ「こいつ…なんなん…」
氏「弱いものにしか強く出られへんねん、サラリーマンやから」)

 

新右衛門は安易に「よかったですね」とか言うのだが、一休さん

「これでよかったのかどうかわからない、千之助はずっと親の声を聴いていたんだ…」といい、歌を詠む。


「闇の夜(世)に鳴かぬカラスの声聞けば…うーん下の句が出てこないなぁ」


このへんで次回に続くのかなーと思うのだが、なんとこれで15分(半分)。
濃密すぎひんか。

 

「あわてないあわてない、一休み一休み」(CM前のセリフ)


後半はさよちゃんというお寺に住む女の子がお母さん(たぶん死んでしまった)の絵を描いていて、みんな(小坊主たち)に下手とかかぼちゃとかデリカシーなく言われて泣く(この構図にすぐ怒るずぶ)

 

困った一休さんと新右衛門は似顔絵師のおじさんに頼みに行くのだが、口で説明した顔はどうしても似ていないのだった。帰り道、一休さんはお店で、さよちゃんのお母さんそっくりの仏像を発見!

「これだー!」

で絵師に描いてもらってさよちゃん喜ぶ。ちゃんちゃん。

 

一休さん「生まれぬさきの親ぞ恋しき…」下の句できた。

 

「闇の夜に鳴かぬカラスの声聞けば生まれぬさきの親ぞ恋しき」

 

これは実際に一休和尚が詠んだと言われている歌で…と解説(ナレーション)が入る。

 

なるほど、歌物語だったのか。

 

前半で父、聴こえない声を聴く
後半で母、見えない顔(仏)を見る

 

の例を両方挙げるために二つのエピソードを入れたのか。

 

親というのは「仏」とも万物の創造主ともいえるわけか。
聴こえない声を聴き、見えないものを見ることで仏(極楽往生)を恋い慕う心(信じる心)が生まれるのだね。
ほっほーーーーーふっか!!!

 

ばかにしてたけど、やさしい一休さん
すきすきすきすきすきっすき♪になってしまった。リスペクト~

 

悩める一休さんはいいけど解説が蛇足。解説(教育)されると一気に萎える。やっぱ「教育する(教える)」じゃなくて、「作品にする(作る)」ってことが大事なんだよ。それがいつまでも当事者のまま参加する姿勢なんだよ。言われなくてもこっちで考えるから。分からないことはこっちから訊く(探す)から。

 

それが「教育されること」への違和感かもしれない。

 

「他人とは思えない…」と言ったら
「0.5休ぐらいかな」とのこと。
納得。

ずぶとじぶpresents 注文の多い小劇場

22日土曜日、無事終演いたしました。

 

ずぶとじぶpresents 「注文の多い小劇場」


9月22日(土)14時~/18時~ ■参加アーティスト 今村達紀 木村玲奈 ■観覧料 1500円 ■会場 旧ずぶ邸(ずぶの学校) 〒533-0022 大阪市東淀川区菅原6-24-17 阪急淡路駅より徒歩6分 ■ディレクター 中西ちさと(じぶ) 小屋主 やかましみさき(ずぶ)

f:id:zubunogakkou:20180924132926j:plain

左から、じぶ、ずぶ、今村さん、木村さん

 

 

◎イベントのきっかけ

6月に種まき祭を終え、ひきつづき旧ずぶ邸の再生活動の方法を模索していた私ですが、四人の遊び人メンバーのそれぞれにそれぞれの生き方があり、仕事(したいこと)があり、私との関係性があるので、全員が同じ金額を出しあって、毎週必ず集まって何かを作る(作らなければならない)と決めることはできない、決めたくないと考えました。

 

そう決めてしまうと、現状の「学校」や「職場」のように嫌々でも行く(行かねばならない)という悲しい事態が発生しかねないと思ったからです。

 

それでもやはりこの場所の新たな可能性を探りたい、少しでも経済を回したい、がひとりではどうしようもないという思いがあり、私は「じぶ」こと中西さんに相談していて、中西さんは「なんらかのイベントをしよう」と言って一緒に考えてくれました。

 

中西さんはダンサーとして活動するなかで、作品を発表したいあまりに経済の部分を後回しにしてしまう(選択肢がない、じぶ曰く「好きの搾取」)ことがあると言っていて、私はそこに疑問を感じ(なぜそうなってしまうのか?)、もう少し踏み込んでみたいと思いました。

 

一生懸命お稽古して、世の中にまたとない、いい時間、空間を作っているのに、それだけの報酬(評価)なのか?と傍から見ていていつも悔しかったのです。

 

社会は本当にそのアーティストに生きていてほしいと思っているのか?

そのひとの存在価値を認め、尊重しているのか?

 

劇場、主催者側(社会)と演者、アーティスト側(個人)の関係には、ある種の支配関係、上下関係を生んでしまっている部分があると感じます。

 

ずぶとじぶが小さな「社会」となって、アーティストさんに来ていただくからには最低このぐらいのお金は支払いたい、また自分たちもこのぐらいはないと赤字になる…というような金額を考え、下記のような「注文」を案出しました。

 

【お客様へ】
当劇場は注文の多い小劇場ですのでどうかそこはご承知ください。

当劇場はとても小さな劇場です。築80年の古民家で、20人ほどしか入りませんので早めのご予約をお願いします。

観覧料として1500円をいただきます。
劇場はその半分をいただき、残りの半分はすべてアーティストにお渡しします。

上演が終わったあとは自由にお話会にご参加ください。

お帰りの際、お気に入りの作品、アーティストがございましたら応援料をお包みください。
(お名前の有無はおまかせします。記名された場合、後日アーティストよりご案内やお礼のお手紙がくるかもしれません。この応援料はすべてダンサーに還元します。)

 

【アーティストの方へ】
当劇場は注文の多い小劇場ですのでどうかそこはご承知ください。

照明や音響はほぼほぼありません。古民家の雰囲気を活かしたパフォーマンスをお願いします。

会場となる旧ずぶ邸の二階部分をパフォーマンスエリアとします。公演をする前の実験の場としてダンサーは当劇場をお使いください。(稽古場としての利用は、ご相談ください。)

アーティストは公演後お話会にご参加ください。

アーティストには入場料の売上の5割(1人2.5割)と、応援料のすべての額をそれぞれお渡しします。

積極的な広報協力をお願いいたします。

 

実際に私も自分で出費して運営している身なので社会の側も大変なことはわかりますが、大変なら「大変なんだ、困っているんだ、あなたの力を貸してほしい」と正直に本音を打ち明け、相談し一緒にどうにかしようとする姿勢をもてばいいのではないか?

 

その姿勢に応えてくれるひととともに問題に向かっていく。それが普通の(支配も依存もない)関係性だと思います。

 

今回の来ていただいたお客様は

 

昼の部 9名

夜の部 11名

 

で1500×20人=30000円でした。ありがとうございます。

 

30000円÷4人(ずぶ・じぶ・演者さんお二人)=7500円/人

 

加えて演者さんにはお客さんからそれぞれ応援料とメッセージカードが直接贈られます(ずぶとじぶを経由せず)。

お二人が封筒を開けてとても喜んでメッセージを読んでいらっしゃる様子を見て、ずぶとじぶもとても嬉しく胸が熱くなりました。

 

いつも以上に心のこもったメッセージもたくさんあったそうで、これまで劇場でやっていた「アンケート」のかたちも実は事務的だった(聞き方が悪かった、やっつけ感があった)、再考の余地ありという気づきもありました。

 

台風で割れたずぶ邸の窓修繕費用にも3100円の募金をいただき、また演者さんのお一人からはずぶの校章をお買い上げいただき(募金になります)、人が自分の意志でコントロールしているお金が気持ちよくぐるぐる回っているのが健康的で幸せでした。

 

お金の話ばっかりになりましたが、私はお金は「気持ちを表現する手段」であり「そのひと(団体)の仕事(存在)への尊重を表現できる行動」だと考えています。

(そのことに踏み込まれないことが傷つくという経験があったので)

 

自分のお財布と相談して、相手への尊重の度合を考えることは、ことばを考えるのと同様に、とても温かく大切な時間だと思います。

 

◎長屋で創作する時間

小劇場となったずぶ邸で数日間、演者さんたちとともに過ごして長屋のおもしろさを再確認しました。境界線があいまいで、それぞれがそれぞれのまま、なんとなくふわっと共存できる空間。

 

関係性も立場も役割も謎めいてくるのは、やはりここが「劇場」ではないただの家(ものが多い)だからかもしれません。

 

当初はもっとものを片付けたり、補修したりして、すっきりシンプルに(?)させる予定でいたのですが、お二人ともありのままの家にすっとなじんで、溶け込んでいらっしゃって、その違和感のないたたずまい(あり方)がそれだけで魅力的でした。

 

今ここにある空間をそのまま把握しようとする力、探求心、柔軟性がプロだなぁ…と憧れます。

(教室でもそうありたいものです)

 

f:id:zubunogakkou:20180924133713j:plain

北側:はがれた壁をどうしようかと思案していると「そのままでも全然いいですよ~」とおっしゃってくださった今村さん。

 

真ん中:封筒づくりにいそしむずぶと写真を撮るじぶ

 

f:id:zubunogakkou:20180924133734j:plain

南側:先日の台風で割れてしまった窓…

「ブルーシートでもいい、それもいい」とおっしゃってくださった木村さん。

逆にブルーシートが美しく見えてきた…(え?!)

 

木村さんの衣装(装束?)は、ここにあった布や服を組み合わせたもの。

東京の家から送ってもらうこともよぎったそうですが、ここにあるものがここになじむと思いそうされたとのことで、この空間を生かすということを細部まで考えてくださっているんだなぁとしみじみ。

 

服はずぶに集まるひとたちの古着(ブティックで販売中、300均)。ひととものの歴史についてももう一度じっくり思いをはせる時間となりました。

 

◎作品を観覧して

作品の動画は後日アップする予定ですが、自分の印象と感想を興奮冷めやらぬうちにまとめておきたいと思います。

 

木村玲奈さん「アラームが鳴るまでは」

「普段この家にはひとが住んでいないと聞いて、じゃあ一番長く住んでいるのはぬいぐるみたちだ」主にずぶが作った歴代の不思議なぬいぐるみたちを「出演者」(名前や設定なども詳しく聞いてくださいました)とし、ご自身は「黒子」のようなスタンスでいたとおっしゃっていました。

 

木村さんの作品の細部の丁寧さと全体の美しさは、個人的に柴崎友香さんの小説を読んでいるような、心地よいが謎めいた気持ちになります。劇的な展開ではなく何気ない風景の中に、よくよく見るとディテールにおもしろさ(ユーモアや切実さ)が散りばめられているような。

 

今回は90年代のトレンディドラマ風のタイトルをつけられたとのことでしたが、このタイトルが随所で響いてくる作品だと感じながら観ていました。

 

アラーム(iPhoneに入っているものだそう)でシーンを移動することが絶対的に決まっており、アラームが鳴るまではその場所で過ごすことが許される。

 

毎朝のことですが「アラーム」というのはなんとも無慈悲で無機質で有無を言わせない音だと思う(夜型人間ずぶ)。どんな夢を見ていようとも朝アラームが鳴れば移動しなければならない。これを一日ととらえることも一年ととらえることも、一生ととらえることもできると思った。今なら、地震の前のアラームもそうだ。突然そのときは来る。それまでの時間をどのように過ごすのかは自分で決めることだ。

www.instagram.com

実はこのシーンは「観客に写真を撮ってもらう」というもくろみがありました。

自分が観客だったら撮れないだろうなぁとは思っていたのですが、案の定、皆さん凝視するのみ…

f:id:zubunogakkou:20180924202423j:plain

……ち、近い(笑)

しかし「え、もしかして? ん?どっちだ? いいのか? やるのか?」というようなちょっとした緊張感が漂い、また木村さんの方でも声を出さないで「いいのよ、さあ、おいでなさい」ということをどこまで伝えられるのかを必死に探っていらっしゃる様子、そのかけひきがとてもおもしろい場面でした。とっさに枠を超えるのは難しい。

 

生徒に発言してほしい、主体的に関わってほしい、自分の教室での様子と重なるところがあり他人事とは思えません(笑)

しかしそれもチャイム(アラーム)が鳴るまでのこと。

 

今村達紀さん「もけもけしたものがはみ出てくる」

舞台転換をしながら自身のご家族、片腕のないひいおじいちゃんのお話をされ、じっくり聴きました。我ながらぎょっとする、ぬいぐるみの勢ぞろいから解放されちょっとほっとする観客たち(私)。

作品と作品の間の境界線もあいまいでやわらかい自然な雰囲気が保たれ、よかった。

 

今村さんも、木村さんと同じく思い出、記憶ということをやはり考えられたそうだ。そういえば私もこの家では自分の過去や原点のことをよく思い返していたのだった。

 

懐かしい家、ぼろぼろのきしむ家がそうさせるのかもしれない。私も住んでいたことがあるわけでもないこの家がなぜかふるさとのように感じることは多かったが、同じように感じられる方もいるのだ。

 

ワンカップと戦争の形見である不発弾をお供えのように前に並べて繰り返し踊る。安心感、安定感のある語り、動きを静かに見守る。

 

「家鳴り(やなり)はそこに住んでいた故人が「小鬼」的なものになって鳴らしている音なんじゃないか」というお話もとても夢があって好きだった。これからそう考えてこの家で過ごそうと思う。タイトルの「もけもけしたもの」はきっと小鬼のことだ!と思って観ていました。

 

家で鳴っている小さな音を採取して大きくし繰り返す。掬いだす。私が気づいていなかったこと、別の視点から「すでにそこにあるもの」を見つけ、生かしてくださることが本当にありがたかった。

f:id:zubunogakkou:20180924202828j:plain

公演後のお話会もなんと全員が参加してくださいました!びっくり…

 

中西さんの公演をお手伝いしていて、公演後に来てくださった方々から感想を聴いたり、ゆっくり書いてもらったり、お話する時間ってとても大事だけど、立ち話になってしまったり急かしてしまったりするのもなんだなぁと思っていたので、ここではお茶をすすりながらまったりした時間を過ごすことができてよかったかなぁと思います。

 

注文が多くなった理由や、イベントのきっかけ、この家のなりたちなどを話したり、相談したりすることがしたかったのです(やかましいです)。

 

今回「劇場」を自分たちで試行錯誤したこともあってか、いつも以上に生で、ライブで、この場にいあわせることのおもしろさ(じぶ曰く「スリリング」さ)みたいなものをからだで感じた。演者さんが誠実に切実に踊っているその場所で呼吸することで、熱(体温)のようなものが伝わってくる。

 

私としては創作段階からその過程を目の当たりにできたり、お話を伺えたことも臨場感(当事者性)をかきたてる貴重な時間だった。

 

「勉強」もそうなのだが、「創作」する、など何かを「する」までの距離というのは、なかなかに遠い。それをするまでに立ちはだかる問題(別の問題、気になっていること)が山積みで、途中で力尽き、そこまでたどりつかないひとが実は多いのではないかと思っている(私がそうだから)。

 

その道のりというのは、ひととひとが話をする、心を通わせる時間を持つことで地ならしができ、環境が整っていくのではないかと思う。

 

自分が前に進んでいく原動力になっている部分を毎回毎回確認しながら進んでいかなければ、しなくていいことやしたくないことをやってしまったりする(しかも気が付かぬままそれが慣例的に「仕事」になっていったりする)気がする。

 

等身大の人の手で作られた温かい「劇場」

(同じ調子の「学校」も作ろうとしています…いやこれがもう学校なのかもしれない)

 

自分たちの手や頭…体、存在を起点に生きる(実存主義的な)、外部からあてがわれた型に自らはまってしまって思考停止している部分をほぐし、自分たちの体に取り戻すということが「創る」ということなのではないかと思う。

 

木村さんがおっしゃっていてとても嬉しかったのは

「今回流す曲は、自分が今ここで聴きたい曲を選んだ」というおことば。

(しかもそれはサティの「あなたがほしい」!ずぶもサティ好きなのです!)

どういうふうに見られるかではなく、自分の気持ちを大事にする。

 

私が学校だと言えば学校だし

私が劇場だと言えば劇場だし

 

他人にとやかく言われることではない、自分で決める、認めるということが正解。

それが私の目指すべき方向性です。

 

ずぶとじぶにとってはこの家全体が作品であり、「劇場型パフォーマンス」(つまりは「劇場ごっこ」)だったといってもいいのかもしれません。なんにでもなれる、ぬえ的な家。

 

反省点もありますが自分たちで考えて丁寧に生きるということ

「NAKAYOKU TANOSHII OMOIYARI」

(サンリオのテーマであり、ずぶとじぶのモットーであります!)

がひとまず実践できたようで満足しています。

 

イベントを組み立ててしゃきしゃき進行してくれたじぶディレクターにも大感謝です。

こうるさいずぶとじぶですが、次は11月に新長田で会いましょう!

ずぶの学校新聞 no.41

~ノンバーバルで自由なだんらん~



夏休み、過労で心身を病んだ兄(石川県在住)が仕事を一か月休んでいるということで、ずぶの学校にやってきた。以前会ったのはいつだったか思い出せない。2~3年ほど前だっただろうか。

仕事が忙しい上に遠いので、会うためには意識的に動かない限り困難だった。というか、「忙しい」というのは心を失くした状態であり意識がないため、ふと「会う」という発想に至ったとしてもすぐに流されて忘れてしまう、といった具合かもしれない。一日一日過ごすのが精いっぱいだったと思われる。自分もそうだったので、そうじゃないかと想像する。


文字のやりとりをそれほどしてこなかった理系の兄と、数年ぶりにラインやツイッターでやりとりをしていて事態の切迫感に、瞬時に自分や周囲のひとと重ねあわせてしまった、共鳴!(癖です)

「見えてるものを見ないふりしてその場を切り抜けていくんよ…切り抜けれれば切り抜けていくほど、しんどくなっていく。切り抜けることが仕事になって、本質がどっかいってしまうんよ」

私が抱える学校の問題だってそうだった! 兄とバーバルコミュニケーションができる日が来ようとは!(?) 兄は「若そうな言葉」を取り入れようと、ツイッターでも生きた言葉を探しているようだった(気づいたら私の友人や生徒とも相互フォローになってておもしろかった)。


ずぶ邸に到着したてのお疲れの兄に、開きにくかった玄関の扉を修理してもらい、なぜかこちらから学校での出来事を相談して、日が暮れてから隣に住む祖母と三人で銭湯に行くことになった。


祖母は耳が遠いため、ほとんど会話にはならず私一人だといらいらすることも多いが、三人で出かけて、なんとなくお風呂に入って、言葉少なに回るお寿司をたらふく食べて帰ってくるというのは、どこかとぼけていて気が楽だった。私と兄はそのままずぶ邸に泊まることにした。お酒を酌み交わしながら、「山月記」の朗読CDを聴き(前回の句会以降ブームだった)、お互いの好きな音楽を聴いているうちに眠ってしまった。


ずぶの学校をはじめた理由には、学校における問題意識のほかに家族を含めた人間関係を見直したいという欲求もあった。20代後半になったとき、自分も家族も年を重ねていくなかで、関係性が閉鎖的であること、淀んだ状態が続くことが息苦しいと感じた。私だけで、家族一人一人(祖母、父、母、兄)のすべての問題に対応しなければならないというプレッシャーがのしかかってくるかのような気がしたのだ(勝手に)。


ステレオタイプな家族観(その他の価値観)が無意識のうちに、そうでない現実を生きる個人を傷つけることはよくあることだろう。自分も知らぬ間にたくさん傷ついてきたし、まだしぶとく傷ついているようにも思う。「血のつながった家族は仲良くなければならない」「必ず分かり合えるはずだ」「その団結の意志を確認するために集まらねばならない」云々。そういった個人の本音を封じた慣習が形骸化している場合、仕事と同様の苦痛を伴う(しかも無償で)。


私の家は、誰もその苦痛をあえて受けようとは思わないので集まりはない。結婚していたとしても、常に会いたい意志を持つひと同士が今まで通り一対一の関係を続けさえすればそれでいいと思う。絶縁したとしてもそれはそれでいいと思う。血がつながっていようがいなかろうが、しがらみがあろうがなかろうが、会うか会わないかは自分で決めることだ。どうにでもできる。これを機に、友人や生徒とも合宿(ともに暮らすこと)をしたいと思うようになった。


翌朝、兄は俳句を作って自分で俳句コーナーに飾っていた。特に説明したわけじゃないのに、言葉のひとじゃないのに、自分から言葉を求めたり作ったりしてくれることが嬉しかった。「行動」自体がノンバーバルで希望だった。創作とは、オリジナルの、唯一無二の、新たな関係性を生み出す「行動」だ。テンプレートを全く無視した自由自在、縦横無尽のコミュニケーション。縁切り寺のようなずぶの学校では意志のあるもの同士が好きなように「生きた関係」を更新し続けることが許される。「家族」の可能性が内にも外にも広がる場所だと感じた。

f:id:zubunogakkou:20180917150624j:plain

うみがずぶの兄だよ。「永遠の共鳴」!!

ずぶの学校新聞 no.40

~読書感想文でも書いてみる 再読中島敦①『山月記』~



七月は一人の高校生から話を聴くことがあり、教師や親など周囲の大人たちの心無い言動に驚きと憤りの連続だった。


長く高二現代文の定番教材になっている中島敦の『山月記』は、エリートコースを歩んできた男が自らの「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とによって自分から孤立し挫折し、人間から虎になってしまう話だが、まさにこの「虎」になることが「大人」になるということなのかもしれないと何度も思わされた。大人たちの言動はどれも、こどもに「はやく虎になるように」「虎になれば楽になるから」と勧めているようにしか思えなかった。虎になると無意識なのでためらうこともなく、うさぎを殺して食べる。そこで人間に戻り、血を見てその事実に気が付き、ショックを受ける。男はだんだん人間であるよりも虎である時間の方が長くなり、完全に虎になる前に友にすべてを話し、最後に哀しく月に向かって吠え、姿を消す。


「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が肥え太り、ゆるぎない壁(障害)となって何があっても何をしても微動だにしない「虎」として完成する(虎に申し訳ないが)。この作品が長らく教科書に載っているということは、完成した「虎」から未完成の「人間」に何を「教えよ」ということの暗示なのだろうか。


私は、作者が未完成の「人間」として悩み続けることをこそ、優しく励ましてくれる物語として、若者たちへの応援歌として読み、高校生の時に心を打たれたし、今でもこうしてすぐに思い返せるほど自分の血肉となっている。「虎」として人を傷つけている自覚を持ちながら「人間」として悩み苦しみ続けることが生きるということなのかもねと友と話し合う空間、我が身を反省する時間を持つことが大切だと思ってきた。


その高校生は生粋の「人間」なのだ。「虎」として生きることへの疑問をずっと持ち続けている。虎になるぐらいなら「死」を選ぶと心に決めている。その決心を、自我を失った虎たちがよってたかって叩き潰して否定し、自分たちと同じように虎になって心を殺して生き延びることを強要する。それが「教育」なのだろうか。授業で扱う内容と学校自体の「教育」内容は矛盾している。授業で教えることは結局のところ建前で、実際はそれとは真逆のことをごく自然に洗脳し続けているように見える。


夏休み明けに自殺する「人間」が多いことは納得の事実だ。「虎」になる(戻る)ことへの絶望を感じるからだ。それは多くの大人がなぜか無意識に「完全な虎であらねばならない」と思い込んでいることが原因だということ。つまり「教育」が問題なのではないかと思う。


虎である時間が長くなればなるほど、完全な虎に近づいてしまう。私は、ふんばって「人間」であろうとしているひとを応援したい。そのひとが私にとっての希望の光だからだ。考える「人間」を生かすことが私のしたいこと(仕事)なのだ。



<8月の句会でみんなで作った句>

月曜日 あることないこと 走馬灯

休暇果つ とらよりのとら ナウ


(「走馬灯」は夏の季語、「休暇果つ」は秋の季語。高校生は「まあまああり」のことを「あり寄りのあり」と言うので真似してみました)

 

f:id:zubunogakkou:20180814143440j:plain

ありがとうございます

前回の記事は、学校の事情を考慮して非公開にしました。

学校はより誠意ある対応を考えてくださるということで少し安心しています。

たくさんの励まし・ご心配のお声をいただき、ありがとうございました。

多くの人が同じような経験をされていたことが分かり、

親身に考えてくださったことがとても嬉しく、生きる希望になりました。

勇気を持って、みんなでいい方に向かっていければと思います。