もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

ずぶの学校5周年

今日で開校から5年が経ちました。

zubunogakkou.hatenablog.com

 

いちばん最初は「ずぶの学校」という名前ができました。

次に校章ができました。

 

わたしが思う「学校」とはどういう場所かを

もう一度考え直すため

新しく想像し創造できる時間、空間を作りたかったのでした。

 

当初「国語」や「教室」という「学校」風の単語を使っていたところから

「私」が何かを「教える」場所なんだというふうに

とらえられたり、私もまたそう意気込んだり。

もしかしたらそういうシーンもあったかもしれないと思います。

学校ごっこです。

(学園ものが好きなのよ)

 

昭和の学校の教室の風景(すてきな先生に限る)への

憧れがありました。あります。

 

すてきな先生が前に立っている教室が好きで

今でもすてきなひとが前に立って

こちらに話しかけてくれる

小さな声を聴いてくれる場所はうれしくて泣けます。

(そういう場所があまりにもないのよ)

 

その反面、自分が教室で前に立つことで

否応なしにひとりひとりを殺してしまう構造に加担すること

(それによってわたしも殺されること)が

どうしても嫌になってしまいました。

 

去年学校を辞めて

「何かをしなければならない」

「何か有益なことをひとつでも…」みたいな

他人軸の「教え癖」みたいなものが

ちょっとずつ抜けていくのを感じていて

今は以前よりだいぶリラックスしてきました。

(そう思ってしまうことはあるけど…期待に応えたくなるのよ…)

 

何もかも、しても、しなくてもいい。

やり方、自由。

どちらにせよ、学ぶのは自分。

 

スクールの語源はスコーレ(ひま)で

空白、余白、何もないこと、自由なこと

 

学校とは自由時間の、空き地のことです。

自由ななかで

やってもやらなくてもいいけど

自発的にやること

それが「遊び」であり「学び」ではありませんか。

 

自分からやらなきゃ何もかも意味がない。

幸福かどうかを感じ

必要かどうかを決めるのは自分。

 

学校とは「自分が学ぶ場所」であって

「先生が教える場所」ではない。

(結果的にそう思うのは学んだ側)

 

さて今は

世の中の学校が閉鎖していますが

(不要不急だったもんね)

 学校はそもそも来ても来なくてもいい場所だった

という前提を思い出せば

不登校」などという学校至上主義のことばは

消えてなくなるのになぁ。

(ひきこもれ!みんなでなろう不登校

 

何もないなかで

自分がやりたいと思うことをやり

行きたいと思う方に行く。

それが何かに殺されずに

自分が自分を「生きる」ということではないかと思います。

 

その方法はそのつど考えていくとしよう。

ずぶの学校は「わたし」がその方法を模索する場所であり

あわよくば、誰かがまた自分の学校を思い立ち、

物語の主人公となり、続けていく道を励ます存在であれれば

と願っています。

 

f:id:zubunogakkou:20200501194715j:plain

旧ずぶの学校にてごあいさつ(2015年5月1日)

 

明日は15時よりライブ配信にトライ……もたつく予定。

www.youtube.com