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ずぶぬれvol.10 はじまりへの旅

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ずぶぬれvol.10 表紙絵:こにしともよさん


 

よだんのよだん(巻末コラム)

 

3月に学校を辞めてから、新しく「小説を書く」という生活がはじまりました。いくつかのきっかけがあるのでご紹介します。

 

ひとつは今号にも寄稿してもらったユキチさん主催の「架空読書会」というお話会を、6月に旧ずぶ邸の「夏至のおまつり」で開いたことです。

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「架空の本」をみんな読んできた体で、まことしやかに語り合う(騙り合う?)というもので、クリエイティブで演劇的要素のあるお話会です。実は、平成の最後の日に「年号越しそば」を食べた後、一度お試しでやらせてもらったのが最初でした。前のひとが言ったことは絶対に否定できないというルールがあるため、もし今ある方向性を少しでも変えたければ、自分が新しい設定を発案して、みんなの前で発言する勇気がいります。でも否定される心配はないから、のびのびと言葉を発することができるのです。懐手の否定ばかりの世の中で、作品に対して作品で返す、詩には詩でしか返せないというところが対等ですがすがしく、好きなところです。

 

後日、読書会の録音を聴きながら断片の情報をつなぎあわせて、ないことないことを肉付けし、実際の本の形にまで仕上げました。今まで小説を書くことはほとんどなかったのですが、ないことないことを書こうとしても、普段摂取している「物語」、自分が住んでいる、見ている聴いている「世界」がじわじわ出てくるのがおもしろい。しかも自分だけじゃなく、他のひとの物語や世界と交錯できることが楽しい(オンラインゲームじゃな)。こういう「ことばあそび」ができる国語の時間があったら、さぞかしおもしろかったろうなぁと思いながら、学校でではないけど、ずぶの学校で実現できたので満足に思います。

 

もうひとつは、芸術大学の入学試験の対策を元生徒オーニシとこころみたことです。文章を読んで、詩やエッセイ、小説を書くという試験は今までの受験生の中に受けたひとがいなかったのではじめてのことでした。オーニシが書いてきてくれたものを読んで、口だけで、こうしたらいい、ああしたらいい、というのがイヤで(たくさんしたけど)、自分も書いてみようかな~と思い、書きはじめたのでした。言うはやすし、行うはかたし。


「次の文章を読んで、自分自身や他人が聞いたり見たりした何らかの話題から人物を作り、創作してください」

 

この時の「次の文章」は私が好きな文章、小川国夫の「耳を澄ます」でした。

 

「小説とは、作者が自分はこれを言いたいと主張することでしょうか。それとも、自分の耳にはこのようなことが聞こえると言っているのでしょうか。後者だとすれば、書かれているのはすべて聞こえてきた言葉ということになります。作中の会話も独白も、作者に聞こえてきた言葉を、右から左にとりついだだけ、ということになります。私には、この行き方が好ましいのです。」


目の前にないことを具体的に想像して書くというのは難しい(あることでも難しい)。具体的であればあるほど説得力が増すわけだが、何を書いて何を書かないかの取捨選択はなかなかセンスがいり、知識や現状などの把握はなかなか根気がいり、すぐに書けるもんではない。他のひとの文章を読むことは、こうしたらああしたら的「指導」や、ミーハー的コツの「伝授」を受ける(上から下への「教育」プレイに巻き込まれる)よりもずっと勉強になるのではないかと思う。嗚呼、何もかも自分が学ぶ(分かる)しかないなぁ。「自由」を問う試験は、問う側の「自由」が問われるんだとオーニシの小説を読んで思いました。

 

さらにもうひとつは、今号で表紙の絵とデザイン、そして巻頭余談を書いてもらったこにしともよさん、「ずぶぬれ」のことを書いてもらった渡邊恵さんと「リレー小説」をはじめたことです。10月末に三人で名古屋に行ったときのことを順番に書いているのですが、三者三様でありながら、三者一様であるところがおもしろい。それはタイトルが「11人のワタナベメグミ」で、全員の一人称が「ワタナベメグミ」なので、読んでいる方も書いている方も、だんだんだれがどのひとでもいいや…と個人の特定をあきらめるようになることが期待されています。これは実際にあったことが大半なのですが、具体的に考えていることはそれぞれ違うにもかかわらず、テーマは同じだったり(になったり)する。人の文章を「読む」、人の話を「聴く」というのはそういうことではないかと思います。


自分もそうだと思うこと、自分なりの具体例に思い当たること、それがいい、よくないと分かること、いいと思ったことは行動し、形(現実)にすること。自分の物語の主人公でありながら、人の物語の登場人物になること。


人に承認されるために、「何者か」になる「夢」を一人で描くのではなく、自分がみんなの中にどうありたいかというもっと具体的な「夢」(空想・構想・架空)を描き、人と共有し、現実にしていくことが、幸せに向かう道ゆきなのではないでしょうか。
これは文章を書くこと、言葉を話すことの一面的な見方なのかもしれませんが、私が誰かと小説を書く理由、誰かとなにかを作りたい理由、言葉を発する理由はそこにあるような気がします。

 

最後のひとつ、7月にクラルテの人形劇ミヒャエルエンデの「はてしない物語」を観に行きました。「夏至のおまつり」で人形劇をしたところだったこともあり、文字が現実になるライブの迫力、現実にする多大なる努力と熱意にいたく感動しました。『はてしない物語』の主人公バスチアンも本を読みながら、自分が主人公であること、自分に語りかけられているのだということになかなか自信が持てません。登場人物にはそれぞれにその先のお話があるけれども、「それはまた別のおはなし」とくわしくは書かれないまま、どんどん物語は進んでいきます。

 

「ずぶの学校」もひとつの「物語」であって、これからも展開していく「はてしない物語」なのです。みなさんのそれぞれのおはなしが今たまたま交錯した地平がこの「ずぶぬれ」には広がっています。見えないバトンを受けてくださった方は、自分の物語を書いて聴かせてくださいね。

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前から、やかまし、こにしさん、わたなべさん



かまし みさき
1986年大阪生まれ。本名、赤松みさき(「やかまし村のこどもたち」に憧れて「やかまし」に改名しました) 
京都府立大学院文学研究科中国文学専攻、博士後期課程満期退学。阪神間の中学・高校で国語を11年担当。2019年3月退職。
2015年に「ずぶの学校」を開校し、校長に就任。地域情報誌の記者・編集者を経てフリーペーパー「ずぶぬれ」同人誌「和亀」を発行。
「旧ずぶ邸」(大阪市東淀川区)は、手作りの本屋、雑貨屋、古着屋、手芸屋、アトリエ、ライブハウス、ギャラリー、実験室、集会所、教室(学校)、寺(教会)、病院、占いの館など変幻自在のぬえ的スポット。俳句、占い、人形劇、ラジオやってます。好きな四字熟語「半信半疑」

 

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