ゆるく、ゆるすということが、かわいさへの道なのかもしれない。
と前回書いて思ったわけですが
そうはいっても、瞬時にはゆるせないこともたくさんあります。
ゆるせないこともひとまずゆるす。よしとする。おけおけおけ。
「死にたい」「殺したい」もゆるす。その思いをゆるす。
「そう思ってるんやな~」と気づき、見とめる。
「いいやん、本音を言えてよかった」
(と、自分に言い聞かせてみる)
社会も教室も「おこる(怒る)」から「おどる(踊る)」へ。思考の変換。こどもが言うことを聞かんときは怒らなきゃいけないという刷り込みから逃れたい。怒るって、ダサい古いワンパターン。自分の都合じゃなくて他人を「怒る」怒り方が分からないから踊りたい。「怒る」のは弱者にではなく強者に対して怒りたい。
(2018年7月14日FBより)
例えば、教室がさわがしくなったとき、先生が一喝して静かにさせるというのは、確かに手っ取り早いひとつの方法かもしれない。がよく考えてみてくださいな。
疑問や意見を出す場もなく長時間一堂に押し込められている、この構図・構造を。
時間がないから静かに? 忙しいから大人しく?
「そういうもんやから」で、すべて納得できますか?
なぜこどもが「怒られる」んでしょうか?
(普通の信頼関係を築けていたら、話ぐらいは聴いてくれるはず、うるさくても)
おとなに友達がいなくて、いっぱいいっぱいだからじゃないですか?
教室がうるさかったら、次に「怒られる」のはその先生だからじゃないですか?
怒らされている・・・???
ここまできて、私はいったい何に怒ったらいいのかわからなくなり
戦争の最前線でひとり、戦う理由が分からず立ちすくみます。
・・・このひとたちを殺したくない。
教室が社会の縮図だとしたら、しんとした教室って、世も末感(ナチスドイツ感、灯火管制感)があると思いませんか?
社会は自然に流されていると、弱いひとに弱いひとにしわ寄せが行くようにできているので、そういう戦争に安易に加担したくないなと思うのです。
ああ・・・何もしたくない。
そんなとき「踊りたい」と切に夢見るのです。
踊り
▽おどる歓び
「おどる」とは「踊る」だけではなく、「躍りあがって喜ぶ」の「躍る」とも書きます。前者は音楽のような何かの調子に合わせて踊ることであり、後者は激しく乱れ動くことです。原始的に跳ねまわり、飛び回る、飛び跳ねること、これが「踊る」「躍る」「跳る」に分化する「おどり」なのであり、このおどりには歓びが伴い、「わーい」という歓びにはおどりがつきものです。また「踊るあほうに見るあほう、同じあほならおどらにゃそんそん」と言う場合は、踊りは阿呆と等価であるとされ、踊りの歓びは身体的なものであるとともに、無意味で愚かでいることが許されることにも深く関係があります。子どもにおける歓びの表現のひとつは躍りあがることですが、大人でも何かの拍子でおどり、跳び、はねまわりたくなることがありますが、踊りは許されても躍りは禁止されやすいのです。
▽踊り狂うことの禁止
けっこう早くから子どもにおいても、場所を選ばずおどることや跳び回ることの禁止が課せられます。つまり、成長とともに体が大きくなり、空間のサイズとの関係から、跳びはねることができなくなるのです。その禁止は人的な構造や物理的な枠との「ぶつかりあい」や「怪我をすること」を通して与えられていくのですが、突然「踊っていると叱られる」ことも頻繁に起きます。多くの患者が、子どものときソファーの上でおどったり跳ねたりしていて怒鳴りつけられたことを思い出しますが、治療のための面接室の多くの設定がおどりには向いていないことにも関係があるでしょう。さらに踊ると物が壊れたり何かにぶつかったりして危険であり、我を忘れる呆然自失の危険と同様、「踊り狂う」という逸脱につながるので危ないのであり、そこに制限と禁止の必要性が急に生まれるのです。
▽舞の危険
躍りは舞うことと区別されますが、全身を動かす踊りに比べて日本の舞いは体をあまり動かさなず手足だけで何かを表現するものであり、より象徴的で洗練されたものとなります。「舞う」はくるくる回るという意味もあり、体の中心は動かさないで回ることが舞の原型なら、舞いの楽しさは「めまい」という原初的な陶酔に通じるのではないでしょうか。この誰にもできるはずの回ること、どのような幼児も楽しんでいる回ることが、専門家の舞踏家や舞姫たちにまかされ、窮屈な制度のなかで先生や師匠から教えてもらう芸になり、舞台(=舞いの台)の上だけのものとなる歴史的過程がありますが、これは、我を失う「めまい」の舞いが危険視され管理されねばならない「自失」につながるからだと思うのです。
▽おどらされる
「おどりたいけどおどれない」という立場にいる大人たちに許された踊りや舞とは、ダンスホールやディスコ、クラブという風に、場所と時間が限られています。しかしそれらは大抵、音楽を媒介にするダンスであり、文化として共有されたリズムに合わせるものであることが多く、たんにはめを外すものは少ないのです。また踊りや舞を女のものとする見方があるとすれば、かつては男たちも舞ったことや、男の踊りを大事にする民族のあることを思い起こすべきでしょう。
さらに大人の踊りを支える音楽の演奏者、祭りの時空の管理者として、踊らない協力者が安全な踊りの成立に欠かせないのですし、のせて踊らせる側に対する踊る側の信頼が必要です。本来が歓びと無意味に満ちた踊りなのであり、信用ならぬ踊らせる側によって思わぬ方向や意味へと意図的に導かれることが不安な場合は、のせられること、おどらされることは警戒され、簡単には踊れなくなるでしょう。ゆえに踊りは、調子の良いリズムや音楽を介して信用できる誰かリーダーのいるところでしか成立しにくいし、若者たちが他の大人と距離をおいて自分たちだけで踊ろうとするのは、そこに自立の喜びがあるからなのです。
管理・制限・禁止、強制・・・有無を言わさず力で押さえつけることが「仕事」。
衝突、怪我、破損、責任を問われず非難されず、経済的効率、コスパがよく、毎日無難なことが平和で天下泰平。
本当に??
同じ教室に不登校の子、学校を辞める子がいても、
何ごともなかったかのように授業をすることが、平和??
私怨の、自失の「怒り」こそ、「自らの分」と出しどころをわきまえ、管理・禁止されねばならないのでは??
前は「信用できるリーダー」として「知性」があることを求めていたのですが、
「霊性」「精神性」のあることが「信用できる」ということの意味だと今は思っています。
舞踏家や舞姫でなくてもおどっていいし、教室でおどってもいい。
下手で 変でだめで、怒れなくて弱くても、
自分が踊るほうが他人を怒るより断然かわいい。
「自立の喜び」が蔓延する方がいいに決まってる。
一見ださくても、実はかっこいい。
灯火管制の張りつめた空気もゆるんで、なにか変わるんじゃないか。
みんながいろいろなことを少しゆるせるようになるんじゃないか。
本音を話せる、本当の平和を目指したい。
まずは自分が踊ろうじゃないか。
まだつづく・・・
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