もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

ライブハウスZUBU(あるいはブティックZUBU)

現在、旧ずぶ邸では版画と彫刻の三人展「おじゃましてます。」を開催しています。

(12月6日~9日まで)

 

京都市立芸大三回生の采(うね)さん、樋口さん、玉岡さんによる展示です。

 

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玉岡さんはとある高校の卒業生で、ずぶとは、ずぶの学校開校以来、見守り見守られてきた間柄。

 

浪人時代は開校ほやほやのずぶの学校(中崎町校舎)にちょくちょく息抜きに来てくれていました。

 

初日(6日)の夜は三人が集まれるラストナイトということで、ピザを食べながらお話を伺う会を設けさせてもらいました。

 

私の疑問ナウ ~マイテーマ~

・アートとは? 社会とは? 教育とは?

・制作は療法(癒し)ではだめなのか? 反動、逃避…

 

今読んでいる本(BGB=バック・グラウンド・ブック)
鷲田清一氏の「素手のふるまい」

 

進路の決め方は?

A:「(いい意味で)ゆるそうだったから」

 

センス(センサー)のままに、正直に進路選択をしていていいなぁと思いました。

三人とも浪人時代を経ていて、根気(とそれを許す環境)がないとできないことだとも。

私も好きな方、楽しいと思う方に向かった。大学に関しては、なりゆきまかせでしたが、自分に合った大学だったと感じています。

 

大学の授業はどんな感じなのでしょう?

A:「基本的に合評(評価)に向けて制作する」

科によって異なるが合評のペースは月一や半年に一回。

偉い(?)おじさんたちに囲まれて、主に技術についてなんやかんや言われる。

 

結果…


樋口さん「好きなものが何かわからなくなってきた」
玉岡さん「自分はこなす方が得意かもしれない」
采さん「はやく牧場に行きたい」(牧場に就職されるそうです!)

 

内部での評価を気にしすぎるとモチベーションが下がる。気が進まないことに向けて制作する(勉強する)のは意欲や才能を潰すと感じる。空気を読んだ作品作り(解答)。評価する側とされる側にかっきり分かれ、お互いに心を閉ざしている状態で果たして「教育」が発動しているのだろうか。そのあたりの現状は(教える側も実はなんだかよくわかっていない模様であるあたりも)結局高校と同じだったのでがっかりした。淀んだ空気。閉ざされたムラの中で自由な作品を作るのは無理だと思う(自由な作品は求められていない?)。

 

(そういえば自分が学生のとき、椎名林檎さんの歌詞について研究したいと言ってる子がいたし、言われてみれば、私もスピッツ草野マサムネさんの歌詞を研究したいと思ったけど、おかたい「文学」部ではそういうことはゆるされないのでした。それは趣味でやることなのか…? 人文社会学ならゆるされるのかもしれないが、では文学とは…? 学問とは? 混乱…先生の「文学」の解釈の範囲内にいることが専門性なのだろうか…? 大学の外の世界の方がよっぽど自由で生き生きしていると感じる…)

 

技術を学ぶというのは黙ってコツコツやる(こなす)べきことなのか?

そうしたい、そうなりたいという目標のないところで技術だけを追い求めることが私にはできない。

 

私も大学生のとき、今やっていることに対してずっと副音声がほしいと思っていた(それを求めて本を読んでいた)。どういうふうに考えてどういう態度で論文(就活も同じか)に取り組めばいいのか、取り組んでいるのか?

 

そこは「自分で考えること」なのだろうか。卒業のための単位がいるから、お金が必要だからと、切迫した必要に迫られてとりいそぎやるものなのか……?(やってみてもいいのだろうけど、やってみたんだけど…)

 

とりあえず先生は、生徒の一番最初の(目に見える)目標(対象)となるようなときめき、やる気を起こさせるようなひと、あるいは場であらねば、生徒をのばすことはできないと思う。

 

自分が話しかけたい相手、外に向かって、特定の誰か、どこかに向かってでないと、何かを投げかける気にならない。内に向かうのではなく、その外を目がける視点が「社会性」なのではないかと思う。

 

「スキルとよばれるものは、隣の芝生に行って発揮されなければじつはだめなんじゃないか。」いいかえると、「アーティストがアーティストとしてアートの分野で何かをするのは基本的にあたりまえ」のことであって、「違う言語に翻訳されて、それが活用される」ことこそスキルというべきものであり、「違う分野に出かけて行って、アートで培った何かをそこに翻訳し、何かを作れる」ことではじめてアートとなりうるのではないか、と。アーティストとは、いってみれば「隣の芝生に行けるパスポートをもっている人」のことだと。

(小山田徹 インタビュー「触れられる未来」『素手のふるまい』より引用)

 

大学のいいところは…

A:「学生の主体性(信念、信仰)」

「好きなものがあるのは気持ち悪い、おもしろい」

好きなものがあるひとが多数派の芸大生はおもしろいひとが多いようです。同調圧力をずっと感じて生きてきたから、そういう意味では気が楽な場所かも。

 


制作は療法ではだめなのか。おたく的、雑貨的なもの、娯楽、趣味的なものと、作品(芸術性、学問性)の差はあるのか。

A:「療法でいい」

 

作品は療法で手すさびで構わないと思う。そこが原動力だから。そういうひきこもりがちな、病的な、適当な、未完の初期作品が好きなのだった。

そうした術は、どこかで行き詰ったとき、生きていられないほど困ったとき、魔法のように社会に開いていく力を持っていると思う。そうやって救いや現実の変化につなげることができる場合もあるのではないかと思う。

他人を生かすことが自分を生かすことになる。私も自分のことを書くより、思いを馳せる(重ねる)相手がいる方がやる気が出たり、必要性、緊急性を感じたりする。社会は自分であり、自分は社会なのだった。自分が変わると社会が変わる。

意識の変容、人間の変容のための「術」とは、このような風景(東北の震災)を前にした、危機的な人間のために施されるべきものかもしれないと思える…(略)

少なくとも、「術」は独立した状態で誰かに見せるものではなく、「術」として使われるべきものではないかと。

(中略)

いまは落ち着いて、自身の「アート」の契機について思い出し、あるいは新しい契機を発見し、その契機に対していま自分が行える返答を、ひとつずつ試し、送り、自らの「術=アート」として磨いてゆくほかないと思う。

畠山直哉『3.11とアーティスト 進行形の記録』/『素手のふるまい』より引用)

 

使われる=動かす(プレイ)=生かす

術=とんち、センス、工夫、魔法

 

ぬいぐるみもずぶ邸も使われてなんぼなのだ!

だが雑に使われるのはいやなんだ!

この葛藤。

 

使う側と使われる側がはっきり分かれないように。

人間関係を丁寧に築きたい。

 

アートにも教育にも福祉にも宗教にも所属できないずぶは「ずぶというアート」を生かして、そのどれでもありたい。自分も他人も生かしつつ社会に根を張って、進路を切り拓いていこう。そういう存在のしかたを模索したい。

 

 

表現とはけっして個人のプロジェクトではない。とはいえそれは、なにかある同一の価値を携えて向かうということでもない。それはいってみればもっと非決定的なものであろう。個人の内なる動機とか衝迫とかから引きだされる必然として制作はあるのではなく、他者に晒され、ときに他者に身をあずけることで、つねにおなじように「わたし」であろうとする強迫から解き放たれる、そのような偶然を孕んだ可能性、それをたぐり寄せる行為として制作はある。その可能性は、じぶんとは別の存在、つまりは他者との偶然の遭遇によって他者の方からいわばわたしに贈られるものだ。がわたしの存在もまたみずからそうと気づくことなく、それを他者に贈り返している。

(『素手のふるまい』)

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(おまけ)
とりあえず私は学校を辞めて「ブティックばばあ」(妖怪風に)になろうと思う。

 

「各学校に保健室、図書館だけでなく、畳の部屋におばあちゃんが要る!」

「コンビニぐらいそういう場所があったらいいのに…」

 

とりあえずずぶはそういう場所になろうと思う。

ずぶはライブハウスのおばあちゃんになろう。

采さんは牧場で「民宿をしたい」と言う!

それはサイコーだねっっ民宿のおばあちゃんになろう。

 

そんなこんなしていると
おばあちゃんが必殺「あずきバー」を持ってきた!!

(おばあちゃんというアート、魔法ですね)

 

すると樋口さんが泣き出してしまった。え!! どうしたの?!

芸大に行くことを応援してくれたおじいちゃんとおばあちゃんは浪人中に亡くなってしまったそうです。そうや、樋口さんはおじいちゃんとおばあちゃんに向けて作品を作ったらええなぁ…(勝手にゆうてみる)

 

三人が今後どんなふうに術を発動していくのか楽しみです。