私あかまつみさきは、これから「やかましみさき」を通称名として活動していこうと思います。
「やかまし村の種まき祭」を経て、リンドグレーンの「やかまし村の子どもたち」を読み、女の子として生きるこどもの力強い意気込みのようなものを感じました。それはリンドグレーン女史の鼻息そのものでもあると思っています。
わたしはずっと旧姓が好きではなく、「赤松」になったときはよろこんで自分のことをそう呼んでいました。学校では生徒に名前を呼ばれる機会が多いので、旧姓よりその方が「先生」をつけて呼ばれるのに耐えられました。
ずぶの学校を設立し校長として外で活動するようになって、だんだん変な気持ちになるようになりました。文章を書いているときは特に。
手紙や、生徒に向かって話しかけるように書く文章は赤松でも気にならないのですが、外で全体に向かって発言するときに、書き終わって最後に署名するときに「あれ、わたし赤松じゃない…」ということを毎回思い出してしまうのです。
実はこの病は小学生のときからありました。アイデンティティの揺らぎ。私っていったい誰なんだろう? という。
みさきはみさきだけど…
所属がわからない…(できない…ない…)
「種まき祭」というイベントを開催して、「やかまし村のミーサ」というのはとてもしっくりきたので、またあかまつと二文字しか変わらないので、また自分がやかましくてたまらないので、「やかまし」ということばを名字にすればいいじゃないか! と思いつきました。グッドアイディア!
私が書くことを一歩引いて受け止めてもらいたいという気持ちもあります。「ばかにされ上手」の自負があるのです。
改名に関して「社会人として信頼できない」というおことばもいただきました。
顔写真や本名を出さないのは血を流していない(リスクを負っていない)のでよくない、信頼されないという気持ちも確かにありますが、できないひとや、したくないひとも確かにいると思います。
私の場合は単に「違う」というだけのことですが。「ちゃうちゃう」「ノンノン」といって生きていくみたいです。
主語のない「社会」に流されることへの反発(戦争反対への意志)
主語を「私」にして話すこと
「私」と「私」が関係を築く意志を持つこと
そのために「ゆるゆる生きる」こと
活動の原点です。
もし失った信頼があるなら、これから活動を続けていくなかでまた築いていきたいと思います。よろしくお願いします。
やかまし村にて