もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

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性とお金、死について③

やっと書きたかったことに到達!

 

4月20日、金曜日。

 

↓かめな句会↓に参加してくださった

zubunogakkou.hatenablog.com

 

ソーシャルワーカーのかおるんさんが主催する

デスカフェに参加してきました。

空堀

長屋を改修したシェアオフィス龍造寺 造(みやつこ)

ryuzojimiyatsuko.jimdo.com

 

デスカフェとは

タブー視されている「死」について

もっとカジュアルに話そうよという会です。

「哲学カフェ」みたいな感じ。

 

かおるんさんも私と同じく、文学部出身であり

阪大の中之島キャンパスの講座を原点に活動されているそうで

(わたしは中之島大学の講演会がきっかけ)

ワッシー山脈の裾野は広い!ということを感じました。

※哲学者の鷲田清一先生

 

最近はだんだん、そんな大阪が好きになってきています。

(昔は嫌いだった、ふるさと回帰している! 我うらら!)

 

透析専門のお医者さん(臨床工学技士)の方と私と

かおるんさんの三人で小一時間ほどまったり過ごしました。

 

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メモメモするわたし

 

以下はお話をしながら、そして今私が考えたこと。

 

大人になってから身近な体験としての死がないので切迫感はないのですが

「ずぶの学校」をはじめたひとつの理由です。

 

いずれ死ぬけれども

君は果たして全力で遊びきったか?

本望か?

という自問。

 

毎日同じ建物の中で一日中閉じこもって

窓枠の中の空しか見ない暮らしでいいのか?

それほど生活が厳しいか?

生活とはなんぞや?

 

だいたい文豪や芸術家などの人生を眺めると

25~30歳ごろから~45~50歳ぐらいまでが

創作に打ち込める時期のようです。

 

30代を鳥かごの中で過ごすより

空の下でのびのび飛び回ってみる方が

次の10年にも生きてくるのではないかなぁと思った次第。

 

死はしめきり。

お金(応援)としめきり(約束)がないと

追い詰められないと自分は何もやらないことは分かっていたので

そこへの意識はあります。

 

どんなふうに死にたいか?というお話にもなりました。

 

もちろん苦しまずにすっと上手に死ぬことをみんな願っているけど

オランダのように安楽死は合法ではなく

透析のような延命治療も多い日本。

 

ここでも主体性がないとうまく死ねない、とのこと。

 

お医者さんも、ソーシャルワーカーさんも、教員の私も

カウンセリングにあたっての共通の悩み…結局…

 

あなたはどうしたいの?

に対する答えがないこと。

 

わからないのではなく

ない!

 

なかったらもうどうしていいやら…

こちらに決める権利はないのだし。 

 

そしてないひとは、見捨てられたと思った瞬間

攻撃(クレーム・ハラスメント)に転ずる。危険! 逃げて!

 

こういう話になるといつも学校や教育の責任を感じます。

 

だって学校は生徒に考えさせるような空間じゃ全然ないし

むしろ個性や意見を認めない方向性だし

 

すんまそんごくうすぎる

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(それを少しずつ変えていきたいのですが…)

 

話もどってどんなふうに死にたいか?

 

お二人のお話を聴いてふむふむ。

 

私は「死なれる」経験も少ないため

全然まだまだ漠然として実感も覚悟もないけど

事故に遭わなければ自殺が視野に入ってきました。

 

二十代までは文豪が自殺するのを

漫画でも読むみたいに軽く考えていたけど、

三十代に突入して納得しだした。

 

主体的に死ぬのが自殺。

 

芥川や太宰のように若くして自殺するのは

精神を病んでいたのだ(あるいは正常すぎたのだ)とも思うが

若気のセルフプロデュースなんだとも思う。

三島由紀夫も。

ナルシスティックというかヒーロイックなところがある。

自分をプロデュースとかしない漱石は病気で素朴に亡くなっている。

 

川端康成のように年をとってから自殺するという

何気ない雲隠れのような死に方は実は一番ロックなような気もしています。

家族や友達や理解者が死んでいくと

自分を支えるものがなくなって耐えられなくなるのかもしれない。

決め手が病気でも自殺でもなんでも、中身は同じかもしれない。

 

安部公房の「事業」という小説には

ユートピア」という機械が出てきます。

死にたいひとがお金を払って入場すれば

安らかに死ねて、しかもハムとなって

他の人間に貢献できるという事業。

(埋葬の手間もなしだ…)

 

衝撃的でした。

ユニバ並みに並ぶ人続出するかもね…

 

今年1月に評論家の西部邁(すすむ)さんが自殺をされましたが

それも主体的な死だったそうで、ものすごく共感します。

 

gendai.ismedia.jp

 

言行一致ができなくなれば

信念も貫けないので死ぬよりつらいのだろうと思います。

昔のようにばんばんひとが死なない(死ねない)ので

耐性がないため人付き合いが少ないため、悲しみは深くなり孤独になり

自殺もとにかくタブー死されていますが

決められるなら自分で決めてもいい。

 

葬儀や供養の方法なども日頃から(元気なときに)

ざっくばらんにオープンに話し合っておくほうがよさそうだ。

お金をかけるなら、結婚式と同じで

オリジナリティや創作の面があるのがおもしろいと思うけど…

そんな気分になれるのかどうか。

 

絶望の中にも希望がある方がいい。

まぎれてしのげるのがいい。

創作は一番のセラピーで希望だと思う。

 

黒澤明の映画「夢」の水車の村に出てくる

にぎやかな葬列のパレードが私にとって「死」のあこがれの風景です。

 

www.youtube.com

 

「死」を明るい作品にしてもらえると嬉しいかも

と思います。

それが一番の供養かな。

 

知らないひとと話すのもいいけど

人数が増えて一般論になっていくと自分と離れておもしろくなくなるだろう。

 

「哲学カフェ」は匿名性を守るため関係性を築かないのを前提にしていて

個人的には一般論や知識人の意見の受け売りなんかを聴いたりするだけではもの足りなく感じる。

知識じゃなく具体的な体験談が知りたいし

結局そのカフェで相互に関係が作れないのなら体験談も

テレビやラジオで聴くのと同じことになってしまう。

 

せっかくライブで同じ空間にいるのだから

対面での関係性でこそできることがしたい

(授業と同じ)

 

今回のデスカフェでは少しの時間でしたが参加者が少なく

ちょっとでも関係を築けたのがよかった。

 

本当は家族や友人と突き詰められるほうがいい。

それは性とお金と同じく

そのハードルは高いわけだが。

うまく話し合うことができれば

これまで以上に相互に主体的な関係に作り直せると思う。

 家族であっても無理なひととは無理だろうけど。

 

肝心のひとと肝心なことを話し合うことの難しさ。

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