もやもやずぶちゃん

旧ずぶ邸あるじのイントンコントン日記

旧ずぶ邸あるじの

ゆめうつつ、半信半疑の

いんとんこんとんらいふ

なんクルクルないさぁ~♪

Face to Fes.(顔と顔)かんそう

こどもが自分のこと信頼してくれたなぁ
と思う瞬間は何よりも嬉しい。

 

球技大会の最後に、
ソフトボールの優勝チームと教員チームが戦ったとき。
なぜかよたよたと老人の私が参戦することに。

 

むろん、できない。

 

優勝チームのピッチャーは野球部の男の子で
生類憐みの令により、ふわっとしたボールを投げてくれる。
ぶーーーん(遅い)とバットをふる私。
何回かそのゆるい運動を繰り返して、
かろうじてボールがかすったとき、
周りで観戦していたこが


先生こっちやで、走って

と教えてくれた……(そこから?)

 

多くの生徒と先生が見守る中で、体を張ること。
これは目に見えるかたちの行動で
しかも

 

できもしないのにやってみせること
どんくさいままをさらけだすこと

 

で、いつも前に遠くにいるひとが
ようやく自分と関わりのある「人間」だと思える。
終わった後は、みんなのまなざしがやさしくなってて、
恥を捨てて、嗚呼がんばってよかったなぁとしみじみ。

 

もうひとつは、
みんな(特に大人)の前で
自分のことば(本音)を話したとき。

 

教室では当たり前にできても、学校全体の場で
マイクを持たされたときにできなければ、がっかりだ。
あの先生は、権力に屈した(はやりの「忖度」した)
とすぐに見抜かれる。

 

それは学校を辞める時のスピーチで気づいた。
なんていえばいいかわからないけど、
(むしろ形式を知らなかった。知らない。忖度できない。)
とりあえず思っていることをまとめてそのまま言ってみた。

 

すると、反響が大きくてびっくりしたのだった。
こどもの表情も変わった。

 

舞台に立っても、
教室での自分、普段の自分とスタンスを変えないことは
こどもの信頼を得るのだと知った。
(一部おとなの反感は買いましたが、
すてきなおとなともつながることができました。)

 

<ちなみに、最近は授業でも。
作文を書いてもらうときはまず自分が書くと決めている。
「デモいのち!」 byうじゃのエリさん)
イチバン不良で「ああ?」「なんなん?」
と常にキレてた女番長が、
私の作文を読んで(配られたらすぐ!)
そのあとからなんとなくやさしくなった。
とても嬉しかった。
これは、ことばが好きなこの場合。
(意外と読書家だった彼女)>

 

だから、イベント・儀式・祭りは
本当はおとなの見せ場で
おとなにとっての試練で
おとなのためのもの。
受けて立たなければならない。
自分が楽しまなければならない。
「デモの終わりなき戦い!」 byエリさん)


そうでないなら、やらなくていい。
こどものためにしてあげるものではけしてない。
(これは「教育」に限らず、「支援」とか「ケア」とかもそうだと思う。)

 

日下さんのお話で
高校の卒業式で親が歌を歌う
(自分たちの気持ちを込めた歌詞のオリジナル曲)
というのは本当にうらやましいシーンで泣けた。

 

(作詞したい…)

 

今の卒業式は、だいたいにおいて
おとなの形式的な慣例的な儀式。
こどもは機械的に「仰げば尊し」を歌わされる。
(古ない? 恥ずかしない?)


まったく魅力のない方向に、
力によって、こどもを寂しいおとなに馴化させていく。
年をとることに絶望してしまうのもそのためだ。

 

おとなはどのあいさつ(校長、保護者、OB、etc)も
全然よくない。つまらない。
むしろ、こどものことば(答辞)は
卒業の当事者だけに、若いだけに
規制がある中でも自分たちで考えている感じが
端々に感じられたりする。
でももっと自由に言えたらいいと思う。
そのためにはおとながまず
自由にならなければならないと思う。

 

信頼されるおとなになりたい。

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うじゃワークショップ後の記念写真