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ずぶの学校新聞 no.8

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外に友達がいる!!という発見

 もうすぐ而立の年を迎えようとしている私。

 

ようやく「自立」とは何なのかを身をもって理解しだしました。この一か月は、ご自身が障害を持ちながら小児科医をされている熊谷晋一郎さんのお言葉をよく思い出していました。

 

「自立とは依存先が無数にあって、誰にも依存していないという錯覚を持っている状態である。」

 

障害を持っている方が危険なのは、依存先が少なく、相互に依存しあう家族との関係が緊密になりすぎることであるともおっしゃっていました。私は、程度の差こそあれ、これは誰にでも起こっていることだと思います。

 

大学生のとき実習に行った養護学校で、自閉症の男の子が砂で遊んでいるのをそばで見ていました。それは砂を手ですくっては、さらさらと砂山に落とすという遊びで、いつまでもいつまでもその時間が続きました。そのとき私は自閉症というのは「自立症」というべきなんじゃないかな、と思いました。自己完結している。完全な自立というのはこういうものかな、と思いました。確かに、完全な自立は生命にとって危険なのかもしれない。強いけれど、弱い……誰にも助けを求められない。

 

実は私もどちらかというとそういうタイプだな、と思っています。自分の中に閉じこもってひとりで遊ぶのが好きだから。ひとに理解されるのには時間がかかるし、傷つくし、あんまり理解してもらおうとも思わないタイプ……本を読むのもそういう遊びの一環でした。

 

けれども、11月の私は記者になっていたので、自然に何人ものひとに自分からアタックすることになりました。びくびくはするものの、いいものを作りたいから、どうせなら自分がいいと思ったものにぶつかりたいという気持ち。だめでもともと……と思っていたのですが、意外なことに私が自分からぶつかった先には、必ずすてきなひとが待っていました。驚きました。今まで、となり近所や自分の今置かれている場所でしかひとを探したことがなかった私は、こうやってひとと出会えるのか!と知りました。自分から、積極的に。

 

本と違うのは、相手が自分のことを見てくれる、知ってくれるというところ。漱石は、太宰は、私のことを知らないけれど。認めてもらえることで自分が本当に存在していることを感じられます。

 

私は、私の定義を見つけました。

「自立とは、いつでも自分から外に出て、自分で依存先を見つけることができる力を持っていることである。」

 

いつでも困ったときに。何度でも。自分のセンサーの赴くままに。外に出る。そのときのために、せっせとセンスを磨いていこうと思う。

 

ぶん・え あかまつ みさき

にわか記者。ずぶの学校長。人形劇部顧問。散歩好きになりました。

 

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▲人生二回目の人形劇を上演しました